実利行者の足跡めぐり

実利行者

林 実利(はやし じつかが)  1843ー1884年
実利行者は天保14年(1843)岐阜県坂下に生まれ、俗名は林喜代八といいました。出家以前は御嶽講に参加、その他にも修行あるいは宗教的な活動を行っていました。慶応3年(1867)25歳の時に出家、名山霊場神祠仏刹を巡拝の後大峯山に入り修行、笙の窟、深仙宿で千日行を行いました。厳しい修行や功績が認められ、伯爵のほか、宮家、聖護院、財閥などと信仰上の関係ができました。そのころ有栖川宮家御殿普請の鎮宅祈祷をした際、有栖川宮より直々に、役行者に次ぐすぐれた山伏を意味する『大峯山二代行者実利師』という号を授けられました。その後大台ヶ原、怒田宿、那智で千日行を行いました。明治11年7月から明治13年3月までの間には中部、関東、東北地方の名だたる霊場を巡礼。同13年には仏生講が結成され、仏生講は行者の出身地の岐阜県を始め、奈良県、大阪府、長野県、静岡県、富山県、千葉県に及びました。明治15年から同16年、生涯最後の事業であった怒田宿の再建と共に大峯山道を復興。これにより、壊れて迂回を余儀なくされていた大峯奥駈け全行程の修行が可能になりました。明治17年(1884)4月21日、衆生済度平等利益の誓願を果たすべく、最後の那智冬籠もりの修行を終え、修験道最高の聖地とされる那智大滝の天辺より捨身入定しました。享年42歳でした。



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 実利の修験行者としての活動は、わずか十六年間であったが、彼の残した業績は五十年百年生きた人よりも大きかった。彼は江戸時代まで細々と伝承された役行者以来の修験道の伝統を徹底的に実践した。その上、明治維新に大打撃を被った修験道の復興者として、その偉大な姿を現した。彼の活躍が特に強烈になったのは、修験道禁止以降であったと言うことが、彼のこの意志を表現するものである。(中略)修験道を復興する意志を持っていた実利は、この伝統の正確な鏡を提供してくれた。実利が木曽御嶽の頂上で受けた霊告による急な出家、或いはその後の千日行に、修験道の正統を保持した大峯、特に前鬼山、深仙、笙の窟と那智を選んだことは、その表れである。(中略)やがて彼は仏生講を結んで信者を集めた。また、この信者の力によって大峯山道修繕が行われ、中絶していた大峯奥駈け修行を復興するという大事業を成し遂げた。この大願が成就したとき、実利はもはや思い残すところなく、捨身によって最後の修験道の奥義を実現したのである。彼の衆生済度平等利益の誓願は捨身を通してのみ実現することができると確信していたようである。(中略)その上、彼は捨身の場として修験道最高の聖地、那智の大滝を選んだ。ここは飛滝権現のいますところであり、補陀落渡海の出発地である。したがってここに捨身することは修験道における模範的な入定の実践である。修験道最高の聖地で最高の滅罪行を果たせば、無上の即身成仏に達するという考えが彼にあったものと推定できる。古代、中世に多く記録された捨身は、江戸時代に入ると、少なくなっていた。しかしその末期に再び入定や捨身が多くなることは、すでに述べた通りである。その多数の実例のうち、多くの事績や著作を残して、入定した実利ほど顕著な修行者はまずないと言っていいだろう。ここに実利の歴史的意義がある。これを、実利は黙して語らなかったが、滅びようとする近代の修験道を復興させるには、この捨身以外にはないと信じていたのであろう。実利の期待したように、彼の死後実利霊神信仰が盛り上がった。入定以来、九十余年たっても、救われた信者の喜びは語り伝えられている。このことは実利行者の誓願が永遠に実在していることをものがたるものといえる。
アンヌ・マリ ブッシイ著『捨身行者 実利の修験道』角川書店 昭和52年8月10日 発行(P105~107)より

私が実利行者の存在を知ったのは昭和50年(1975)頃だったと記憶しています。当時私は実利行者の遠縁として、岐阜県の坂下にある実利教会の霊神祭に度々おじゃまをしていました。その頃の私は実利行者や教会について詳しく知ろうとはせず、もっぱら春の行楽気分で出かけてお世話になっていました。何時しか時も流れ、教会への足も徐々に遠のいていきました。ところが二年前の夏の終わり、殆ど目を通すこともなく本棚の奥にしまい込んであった『捨身行者 実利の修験道』を読み、激動の時代に信念を貫き通した行者の生涯に今さらながら感動いたしました。これを契機に、実利行者に関わりのあった場所を訪れたいと思うようになりました。足跡を巡るにあたり、主な情報源は『捨身行者 実利の修験道』ですが、ネット上でも実利行者にまつわる情報を相当数見つけました。もう少しまとまった情報があればと思い、このサイトを開設いたしました。宗教や歴史について語ることはできませんが、道案内のお役に立てば幸いです。

2008年10月

ブッシイ氏と実利行者

『捨身行者 実利の修験道』によれば、ブッシイ氏はパリ大学に於いて民俗学を修め、大学院に進んで第一次大戦以前のブルターニュ地方の民俗を研究、修士論文を完成されました。この民俗学と東洋へのあこがれから、日本の庶民信仰の研究を志し、日本政府の文部省学術振興会外国人共同研究基金、及び外務省の国際交流基金によって、昭和49~51年迄三年間の在留研究を支持されました。文部省と外務省の委託を受けた五来 重氏に師事し、修験道と日本の庶民信仰の研究を始めました。そして、那智の大滝に捨身した実利行者の存在と、行者を信仰の対象とする実利教会が実在し、行者の伝承や遺書の存在を知って研究課題に取り上げられました。さらに、五来 重氏による緒言「修験道史と実利行者」には、次のように紹介されています。

 生々しい捨身というショッキングな印象をあたえる近代の一行者と言えば、我々は目をそむけたくなるのが普通である。ところがブッシイさんがそこに着目されたのは、やはり贖罪の十字架の教えを、物心のつかない赤ん坊のときから聞かされた、フランスのカトリック的風土の影響かもしれない。実際に日本ではキリストの受難図にしか見られない壮絶にして崇高な死が、フランスでは教会の彫刻なり、路傍の十字架に、日常茶飯事的に見られる。実利行者の那智の大滝からの捨身は、これと同じような壮絶さと崇高さを感じさせたに相違ない。(中略)山伏の難行苦行は、捨身の代替的実践であって、死の一歩手前までの肉体的苦痛によって、人々の苦に代わろうとする。このような宗教的理念は、苦行を否定した仏教では理解できない。また捨身飼虎の図の摩詞薩捶太子のように、自己の悟りのための捨身でも理解できない。むしろ人類の原罪を贖うために十字架にかけられたキリストの死のほうが、山伏の捨身に近いのである。そのようなところからブッシイさんは、この捨身行者に興味を持ったのだとおもう。

 

一方井(いっかたい)自光坊十三代快孝について

『捨身行者 実利の修験道』(P37)において、明治三年十一月十三日、前鬼で修行中の実利行者に『垢離文』を授けたのは「正大先達快孝法印」であったが、この法印山伏の身元は明らかではないとされていました。ところが、最近になってこの人物について知ることができる研究論文『修験道史料自光坊文書』を見つけました。この研究論文は岩手大学のサイトにある「岩手大学リポジトリ」/人文社会/紀要論文/アルテス リベラレス/第34号 No.34(June.1984)に置かれています。森 毅 著『修験道史料自光坊文書』岩手大学人文社会科学部出版 発行1984年というpdfファイルです。
『修験道史料自光坊文書』の序文によれば、輪台城主一方井氏から出た自光坊は藩制期には二百石を与えられ、領内修験者の筆頭年行事で元禄以降は領内修験統轄役の惣録を維持しました。南北朝期貞和五年(1349)の熊野先達の注進状が示され、一方井氏が中世豪族として熊野との結縁を結んでいたことが分かります。藩制期の南部領は鹿角・毛馬内地方、更には下北半島をおおう広域の領国でした。そして「快孝」は十三代目の一方井自光坊であり、幕末維新政争の際に藩の特命を受けて公卿中山忠能と関係を持ち、次第に世俗の政争に手を染めていきました。その後一転して大峯山中での千日山籠の荒行に投じ、吉野で最期を遂げたと記されています。以下に、『修験道史料自光坊文書』本文中の自光坊十三代快孝と実利行者について記述のある箇所(12)〜(13)を引用します。

 一方井自光坊十三代快孝が堂上公家高松保実の猶子となり、幕末公武合体運動の中心的公卿中山忠能や西郷隆盛と共に入水した勤王僧月照(成就坊)との関係を結び次第に幕末政争にかゝわって行った際の文書である。清水寺塔頭成就院住持月照の仏学の弟子となった快孝は、月照が政争に身を投じたとき、暫く月照の後を継いだ事情を考えれば、彼と西郷や月照との思想上の繋累が推察され、そこに醸成された交感がどのようなものであったか興味深い。いずれ南部藩が白石転封を命じられたとき、中山卿への密僧として奔走した事情もかゝる繋縛に生まれた行動だったろうと思われる。明治三年、法務大先達となっていた自光坊快孝は、修験者にとっても最も難行とされる千日山籠の斗藪を決意して大峯・葛城両峯に入山した。(中略)この頃の快孝の行動は修験道が明治新政府によって廃止に追い込まれた未曾有の法難の時期に当たっていただけに、一見奇妙な暴挙にもみうけられるだろう。だが、維新政変と法難という昏乱の真直中に生まれ合わせた修験者が、このような時にこそ「神変菩薩之遺風を慕ひ……天下太平国体御安穏万民豊楽宗道興隆之実験を顕し申度」という挙を全うしたとしても、一箇の自覚にもとづく自行自受、幽谷斗藪を旨とした本来の修験道に照らしてみれば、それは忘れかけていた同宗の始源的な精神への、最終的な覚醒をうながす警鐘でもあったろう。
因みに、興味深いことには、明治十七年那智滝で捨身を敢行した美濃出身の傑僧実利行者が、早く明治三年に大峯山中において快孝から「垢離文」を授けられており、二人は師弟の間柄であったことが A・M・ブッシイ著『捨身行者 実利の修験道』(角川書店)所載資料によって知ることができる。実利行者は、大峯での千日山籠を前に妻を離縁したが、快孝も同様の振舞いを行っていた。ブッシイ氏は実利行者の希有な個性を、維新の打撃をこうむった修験道の復興者として捉えて描いた。
自光坊快孝の死は修験道廃止の二年後、明治七年であったが、死の直前まで宗内寺院の進退取りはからいに専心し、かたわら聖護院抱寺宝珠寺移転事務の為に奔走していた。この頃、前鬼山五鬼熊は快孝の国元に宛てた書簡に、若し快孝が下山するならば千二百年相続の宗道が跡方もなく断滅する、とまで書いて快孝の帰国懇望をしりぞけていた。この大仰で皮相とも思われる五鬼熊の書簡は、快孝が崩壊と復興との昏乱からついに抜け出ることが出来なかった宿命を語っている。しかしながら、実利行者の光芒もまたかゝる法累の延長に開いた韜晦の花だったろう。
両者の大峯山中での関係や思想上のつながりについては、今後の研究課題として残されているが、それは個人史でありながら、個人が選ぶことの出来ない時代(制度)と人間との間の緊張をも鮮明化したものとして、歴史把握のための広汎な問題に収斂されるべき事柄であろう。(以上)

『捨身行者 実利の修験道』(P38)には、実利行者が『転法輪』の奥書に「中山伯一位猶子」と書いており、明治天皇の母方の祖父に当たる中山伯爵(中山忠能)が実利行者の信者となって、行者を猶子(名目上の養子)としたと推定されると記されています。『修験道史料自光坊文書』からは、実利行者、自光坊十三代快孝、公卿中山忠能の関係の一端を見ることができます。そして実利行者が修行を積み重ねた時代が修験道にとって、いかに困難な時代であったか改めて知ることができました。明治七年から十一年にかけては実利行者の足跡を見つけることが難しく、一方井自光坊快孝が死没したことも影響しているのかも知れません。

2011年1月5日

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垢離大事 (約50×18cm)  上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2012年6月7日撮影


自光坊快孝の大峰修行と実利行者入定後の修験道

2012年5月、大江希望氏の『実利行者立像の讃解読』が改訂され、宮家 準『近現代の山岳宗教と修験道』という論文に自光坊快孝と実利行者のことが出ていることを知りました。この論文は明治聖徳記念学会 2006年発行の『明治聖徳記念学会紀要 〜複刊第四十三号〜』(p42〜61)に掲載されており、〜神仏分離令と神道指令への対応を中心に〜 という副題がついています。(p49)「三、霊山登拝の盛行」には、自光坊快孝や実利行者の壮絶な修行が修験道に与えた影響について述べられています。私は実利行者入定後の修験道史については知る由もなく、たいへん参考になりました。また神仏分離令が修験道に与えた影響についても、改めて理解することができました。以下にその一部を引用します。

三、霊山登拝の盛行

 聖護院で本山派の立てなおしに盡力した自光坊快孝(1839‐1874)は、明治3年(1870)閏10月に本寺役所に大峰、葛城両峰の千日山籠を願い出て許された。彼はその意図を修験道を名義相応の義とする為に役行者の遺風を守り、大峰山に引き籠もって捨身苦修の実行をすると述べている。そして当初は吉野の実城寺に行ったが、その後大峰山中の前鬼に赴いて修行し、そこで修行中の木曽御岳出身の実利(1843‐1884)に「垢離の大事」を授けている。この実利は前鬼の行者坊五鬼熊義真を師として笙の岩屋と前鬼で二度にわたって千日籠山をした。さらに回国修行したのち、明治14年(1881)から熊野の那智に籠山し、(註.1)同17年(1884)那智の大滝で捨身入定した行者である。なお自光坊快孝は前鬼での修行後、吉野山吉水院住持となり、あわせて大和一円天台宗教義取締になった。そして明治6年(1873)11月には、大峰山中の深仙で満行法要を営んだが、翌7年吉野山で死亡した。
この自光坊快孝や実利の大峰山中での壮絶な峰入修行に促されたかのように、聖護院や三宝院では明治中期以降、大峰山で配下の修験者を集めて盛大な峰入を行った。主なものをあげると、聖護院では明治19年(1886)9月雄真大僧正を大阿闇梨として深仙灌頂会を施行した。これは嘉永2年(1849)の開壇以来、37年にあたるものである。また明治32年(1899)の5月12日から6月1日にかけては、神変大菩薩千二百年忌を記念する峰入が、五千人余の参加者を集めて盛大に施行された。その行列は12日に園城寺を出発、聖護院をへて、役行者の廟所箕面山で採灯護摩供を施行、ついで吉野蔵王堂・洞川竜泉寺・山上本堂・小笹で採灯護摩供施行、奥駈後、6月1日に帰院した。なお聖護院では爾来ほぼ毎年、吉野から熊野に至る奥駈を実施している。 神変大菩薩千二百忌記念の峰入は三宝院でも1年おくれて明治33年(1900)5月に行われた。その後三宝院では明治42・43年(1909・10)にも峰入が行われ、44年以降は6月2日から7日にかけて花供の峰入が恒例化する。さらに明治41年5月には理源大師一千年忌や、同43年10月23・24日には恵印灌頂ならびに切紙伝授の法会が50人余の修験者の参加のもとに盛大に挙行された。(後略)以上

引用箇所につづき、本山派大阪箕面寺の神変大菩薩千二百年忌を契機とした興隆、比叡山の修験の復活等、廃寺となったり荒廃していた寺院の再興が相次ぐ様子が述べられています。また、修験宗廃止令にもかかわらず大阪の八島役講を始め数多くの講社が大峰山に登拝する等、明治後期から大正期にかけて全国各地の霊山でも峰入が盛行したと述べています。

宮家 準『近現代の山岳宗教と修験道』は、サイト『明治聖徳記念学会』の「紀要検索」に置かれ、自己の学術研究の範囲でのみ検索、閲覧及びダウンロードが許諾されています。(検索番号 990)

(3/10 2020 改訂)


明治五年の修験宗廃止令

明治五年の修験宗廃止令は修験道禁止令と言われ、明治政府が修験道を禁止したように受け取る向きもあるようですが、はたしてどうでしょうか。
 愛知学院大学 禅研究所紀要 第30号 平成14年3月発行 林 淳『明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察 〜 天台・真言への帰入問題 〜 』は、広く利用されている宮家準『修験道辞典』(1986)を例えて検証しています。

この法令は修験道にさまざまな混乱を招き大きな影響を及ぼしましたが、修験の活動が禁止されたわけではなく、修験宗という宗派を廃止し全ての山伏たちは天台宗か真言宗かのいずれかへ帰入するよう命じています。実利行者にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
 大江希望 福山周平の「由来記」6(6・4) 後段を参考にしてください

2020年7月24日
























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