実利行者・年譜

アンヌ・マリ ブッシイ 著『捨身行者 実利の修験道』角川書店 1977年発行による

天保14年(1843)

岐阜県坂下で出生、俗名は林喜代八であった。

慶応 3年(1867)

25歳で出家、以前より御嶽講に参加、それ以外にも修行又は宗教的な活動を始めていた。
(以下)『捨身行者 実利の修験道』P30~32より
出家の動機について伝記では、「霊のお告げによって…」という理由が取り上げられているだけである。(中略)これは実利教会に集まる信者の老人(8名)から聞いたことであるが、土地の人々に信じられている話がある。行者が25歳の時、坂下の12人の信者と一緒に、黒沢口登山道の千本松で行われる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために、御嶽山に登ったという。その時の託宣に三の池の竜王が出て、次のように告げたという。「自分は夜中に三の池の面に姿を現すから、自分の姿を見たいものは、夜中に登ってこい」このすごいお告げを聞いたものは誰も恐ろしくて登ろうとするものはいなかった。ただでさえ物凄い山上湖の三の池である。そこへ夜中に出現する竜の姿を見に行こうというのは、余程の豪胆でなければできることではない。一同黙していると実利が進み出て、「誰も行かないのなら、自分が会って来よう」といって、驚く人々を尻目に、夜中一人で頂上近い三の池まで登った。彼はそこで青竜王にあったらしいと人々はいう。らしいというのは、明け方に実利は山から降りてきたが、待っている人々には一言も口をきかなかったからである。何を聞いても黙って何も語らなかったが、それから急に彼は出家したのだという。このような神や霊との出会いについては、昔から誰にも語ってはならず、もし語れば即座に死ぬといわれている。したがって彼が沈黙をまもったということは、むしろこれが事実であった証拠だと信じられているのは無理もない。おそらく実利にとっては竜王との会見は現実であり、その異常体験が彼を優れた修験者へと廻心させたものといってよい。したがってこれはまことに神秘な出家であり、のちに那智の滝に捨身入定する運命は、この時定まっていたように思われる。

明治 元年(1868)

名山霊場神祠仏刹を巡拝の後、大峯山笙の窟で千日行を始める。
明治新政府により神仏分離令が発令される。 

明治 3年(1870)

明治3年から前鬼に出て、仏教と修験道の勉強及び深仙の宿で千日行を始める。
(以下)『捨身行者 実利の修験道』P38より
伝承や資料をまとめてみると、実利行者は明治元年と7年の間に、二度千日行をし、一つは上北山村と笙の窟を中心とした山籠もり、そして下北山村と深仙・前鬼を中心とした山籠もりをしたものと考えられる。(中略)実利行者の自筆帳の分析が示すように、彼の思想、信仰と供養の方法は前鬼の五鬼熊義真の下で学んだ。(中略)この時期には、実利行者は名門家と信仰上の縁を結んだようである。すでに『転法輪』の奥書では、中山伯一位猶子と書いていたのは、明治天皇の母方の祖父にあたる中山伯爵が実利行者の信者となって、行者を猶子(名目上の養子)としたと推定される。なお、行者が厳しい修行をして有名になったので、伯爵の外、有栖川宮、聖護院、財閥鴻池家などと信仰上の関係ができた。そのころ、有栖川宮家のために御殿普請の鎮宅祈祷をした時、「大峯山二代行者実利師」という号を有栖川宮から直々授けられた。これは役行者に次ぐ優れた山伏という意味であった。

明治 5年(1872)

明治元年(1868)に発令された神仏分離令につづき修験宗廃止令(修験道禁止令)が発令される。

明治 7年(1874)

明治7年から11年にかけては、大台ヶ原での千日修行以外はっきりした資料がないようです。この時期は修験宗廃止令(修験道禁止令)で修験道は厳しい制約を受けていました、実利行者はその太政官布告に従わず修行や祈祷を続け官憲に追われたりしていました。そのような影響で資料が乏しいのかもしれません。実利教会には、投獄された実利行者が獄中で一週間断食をし、驚いた官憲が行者を釈放したという話が残されています。明治7年、十三代一方井自光坊快孝死没。

明治11年(1878)

7月16日、岐阜県坂下の上野から出発して諸国巡礼の旅に出る。10月13日に陸前の小牛田に到着。11月に下北山村佐田へ戻り三日間の魔利支天供養を行う。

明治12年(1879)

11月に陸前の石巻から巡礼を再開。

明治13年(1880)

3月に名古屋で諸国巡礼の旅を終えた。坂下に戻り病気の父親の看病をする。7月に父親の葬儀をする。11月には実利教会の境内にある舎利塔の建立をする。12月には仏生講が結ばれた。

明治14年(1881)

5月までは坂下に滞在したと考えられる。伝承によるとこの里帰りは「最後の里帰り」であったといわれる。この冬坂下を出て那智の滝で寒行をするために那智に向かう。11月3日那智山に入る、この寒行で「那智行者」として知られるようになった。この冬籠もりは実利行者の最後の修行の始まりであった。

明治15年(1882)

6月6日から7月1日迄、怒田宿の新築及び道開き。行者は6月6日に那智を出て8日怒田宿に入る。怒田宿新築の後ここで山籠もり。

明治16年(1883)

7月21日から9月28日迄、大峯山道再興。10月1日、最後の那智冬籠もりのために怒田宿を出る。下北山村浦向修行場より那智に向かった。

明治17年(1884)

明治17年4月19日最後の冬籠もりを終え遺書を書いた。4月21日那智大滝の天辺より捨身入定した。



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