天保14年(1843) |
岐阜県坂下で出生、俗名は林喜代八であった。 |
慶応 3年(1867) |
25歳で出家、以前より御嶽講に参加、それ以外にも修行又は宗教的な活動を始めていた。 |
明治 元年(1868) |
名山霊場神祠仏刹を巡拝の後、大峯山笙の窟で千日行を始める。 |
明治 3年(1870) |
明治3年から前鬼に出て、仏教と修験道の勉強及び深仙の宿で千日行を始める。 |
明治 5年(1872) |
明治元年(1868)に発令された神仏分離令につづき修験宗廃止令(修験道禁止令)が発令される。 |
明治 7年(1874) |
明治7年から11年にかけては、大台ヶ原での千日修行以外はっきりした資料がないようです。この時期は修験宗廃止令(修験道禁止令)で修験道は厳しい制約を受けていました、実利行者はその太政官布告に従わず修行や祈祷を続け官憲に追われたりしていました。そのような影響で資料が乏しいのかもしれません。実利教会には、投獄された実利行者が獄中で一週間断食をし、驚いた官憲が行者を釈放したという話が残されています。明治7年、十三代一方井自光坊快孝死没。 |
明治11年(1878) |
7月16日、岐阜県坂下の上野から出発して諸国巡礼の旅に出る。10月13日に陸前の小牛田に到着。11月に下北山村佐田へ戻り三日間の魔利支天供養を行う。 |
明治12年(1879) |
11月に陸前の石巻から巡礼を再開。 |
明治13年(1880) |
3月に名古屋で諸国巡礼の旅を終えた。坂下に戻り病気の父親の看病をする。7月に父親の葬儀をする。11月には実利教会の境内にある舎利塔の建立をする。12月には仏生講が結ばれた。 |
明治14年(1881) |
5月までは坂下に滞在したと考えられる。伝承によるとこの里帰りは「最後の里帰り」であったといわれる。この冬坂下を出て那智の滝で寒行をするために那智に向かう。11月3日那智山に入る、この寒行で「那智行者」として知られるようになった。この冬籠もりは実利行者の最後の修行の始まりであった。 |
明治15年(1882) |
6月6日から7月1日迄、怒田宿の新築及び道開き。行者は6月6日に那智を出て8日怒田宿に入る。怒田宿新築の後ここで山籠もり。 |
明治16年(1883) |
7月21日から9月28日迄、大峯山道再興。10月1日、最後の那智冬籠もりのために怒田宿を出る。下北山村浦向修行場より那智に向かった。 |
明治17年(1884) |
明治17年4月19日最後の冬籠もりを終え遺書を書いた。4月21日那智大滝の天辺より捨身入定した。 |