旅日記

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旅日記諸国巡礼の記録)  7cm×16.5cm 下北山村歴史民俗資料館 所蔵

アンヌ・マリ ブッシイ 著『捨身行者 実利の修験道』角川書店 1977年発行による

『旅日記』は明治11年10月13日の子牛田村逗留までに実利行者の筆跡しか見られないが、その後の宿帳は宿の主人の筆跡である。実利はその他の道順や日付や善根宿や参拝した寺社を述べている。しかし明治12年12月15日、上総国勝浦の所からは、またほとんど自筆になる。


明治11年 7月16日

坂下村の上野から出発して、長良川に沿って北上。

( 同 ) 8月 5日

白山登山口の石徹白から、別山と白山に登山した。そして加賀側へ降りた。

( 同 ) 8月12日

金沢、富山を通って、8月12日芦峅寺から立山を登って、戸隠山に着いて善光寺まで行った。

ここを出ると、上田、諏訪、甲府を経て、河口湖から富士登山した。白山、立山、富士山と、古くからいわれた「三禅定」をして、実利行者はまったく古代中世からの六十六部経聖や霊場巡礼者たちの踏んだ道を辿った。白山、立山、富士の三つの峯は古代からもっとも有名な山獄信仰の対象であり、十一面観音、阿弥陀如来、大日如来を本地として修験道の山伏によって管理された。 

( 同 ) 8月29日

しかし実利行者は三禅定にとどまらず、8月29日には修験と庶民信仰ゆかりの相模の大山不動明王に参った(この山に対して近世には江戸市民の信仰と関東一円農民の信仰が厚かった)そしてその足で、江の島弁財天と鎌倉の鶴ヶ岡八幡に詣でて、東京の十ヶ社寺に参詣した。

( 同 ) 9月10日

9月10日成田山に参る。

( 同 ) 9月20日

香取神社、鹿島神社、筑波山、加波山を通って、9月20日に日光に着く。

( 同 ) 9月21日

9月21日、日光の四ヶ社寺を訪れた。

それでも、足をとどめないで、今市に戻り、奥州路に入る。真岡、大田原、須賀川、郡山、杉田、福島を経て、桑折から小坂峠を越えて山道を歩いた。 

( 同 )10月 1日

刈田郡の湯ノ原から、10月1日に山形に出たが、雪が降っていたため、4日までこの付近に滞在した。次の5日、東村山郡肴町から、志津と六十里越を通って、湯殿山麗に至った。そこで北辰行者に会う。

( 同 )10月 6日

10月6日に湯殿山に登って、光道海行人の小屋に泊まった。

( 同 )10月 8日

8日、鶴岡から羽黒山に登山したが、その時に大雨が降っていたから「甚難中」と『旅日記』にある。大日如来と聖観音を本地とする湯殿山と羽黒山は、月山を加えて出羽三山として、東北に権威をふるった修験道の山である。これは実利行者の目的地であったらしい。

( 同 )10月13日

その後、最上川谷に沿って東へ行き、10月13日には奥州の小牛田に着き、『旅日記』を中断する。

この三ヶ月足らずの巡礼で、実利行者は中部、関東、東北地方の有名な民間信仰と修験道の霊山に参詣した。


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明治12年11月28日

<巡礼再開> 石巻を出て、まず女人禁制の厳しい修験の地であった金華山へ渡った。

( 同 )12月 7日

そして塩釜、仙台を通って、相馬と太田の妙見に12月7日に参詣した。

磐城平では、閼伽井獄の常福寺に詣り、水戸、秋葉村、牛堀村を経て上総に入った。

( 同 )12月12日

そこで12月12日芝山町の仁王寺と奥の院に参詣してから、房総半島の方に赴いた。

( 同 )12月22日

一宮、勝浦、那古を通って、天羽郡桜井村まで行った。この桜井村と近所の和合村(加藤)に実利行者は12月22日から翌13年2月19日まで逗留した。ここの村人と親しくなった彼は、七家の間を交替でもてなされた。

この期間が終わると、湊から安房国を出て、藤沢、小田原、箱根、静岡、藤枝、袋井の宿を通って、光明山、秋葉山と鳳来寺山に詣でた。

明治13年 3月 7日

そして、明治13年3月7日に名古屋でこの旅を終えた。

この行程によって、「日本九峯」(大峯山、出羽三山、彦山、石鎚山、白山、立山、富士山、日光、伯耆大山)のうち六つの峯で修行したことになる。



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