庚辰(明治13年)の旅のメインテーマは大峰の奥駆けでした。
この奥駆けは苛酷なもので、彼一人の力で成し遂げられたものではありません。
63歳の彼を暖かく迎えてくれた人、案内や強力に当たってくれた人。
地名・山名を丁寧に教えてくれた人、たくましき人・・・
多くの人々の協力があって成功したのでした。
若い時の蝦夷地探検でアイヌの人々の協力があったことが思い出されます。
 
小西善導 

この旅の前年、吉野の出茶屋で妻と花見を楽しんでいるとき、たまたま一人の僧が通りかかりました。呼び止めて話を聞くと、もとは大坂安土町で醤油やを営んでいたが、山上権現を信仰するようになってついに法体し、大峰奥駆けを11度もしたということで、今は摂津国国分寺の住職となっていることがわかりました。
武四郎には大峰奥駆けを敢行したい宿願があったので、その旨を告げてそのまま分かれたけれど、後日連絡を取り合って、今回の案内をしてもらう話を具体化したと思われます。
5月5日竹林院に宿をとって待っていると、約束通り、やってきました。
以下本文。

五日。大坂難波島の小西善導来る。
六日。早天より少し雨。隠居宅にて喜蔵院、善導、喜右衞門外三人人扶等相会し山中持物総て手配に懸り、夜に到て相成る。今日明後八日、御戸開き参詣の道者吉野山に上る事、凡三千人といへる。是迄は四月八日御戸開きの処、新暦に成るにより五月八日と相定るよし。荷物支度、一人前米三升五合、わらんじ十足、味噌、塩梅干、てん火味噌、伽羅昆布、豆煮、味噌漬、たんぜん、一枚づゝ、ケット二枚、斧細引縄、山刀、法螺大小二口。其外用意相整候也。夕方晴。

金剛童子の祠有。杖二三十本下きもの有たり。此処にて杖を捨て前鬼に到りて新に杖を更行と云へども我は中々杖を捨なば、先は如何ともなしがたからんと喜右衞門我が杖を持て、善導は細引を下げ、是に取付て□を呉たり。此間八丁といへども艱難云ばかりなし。釈迦岳〈従京都□□□越四十五里、従吉野大峰通二十六里余、従熊野本宮十八里、従和州上市二十里余、従和州五条十津川通渡川越、従天の川坪内十里、従同所小川□越、従天の川□弥山十二里〉、登るに三道有。泊母谷より前鬼村に到り登るは本道にして、五条より谷瀬に至り小川村を経て赤木村より上るに間道也。

武四郎の大峰奥駆けが成功したのは、この善導や喜右衞門他三人の強力の協力があったればこそです。蝦夷地において彼が奥地の探検や調査ができたのはアイヌの人たちの協力があったのと同じです。

翌14年の金峯山寺蔵王堂への大神鏡奉納に際しては幹事の一員となっています。また十八年の大台ヶ原登山にも随伴し、武四郎を助けています(稿本『乙酉紀行』に詳しい)。
古沢龍敬

竹林院37世で今は隠居の身です。武四郎の明治13年の大峯奥駈に際しては食糧、装備、人足等を手配し、14年の金峯山寺蔵王堂への大神鏡奉納に際しては幹事長として世話をしています。一畳敷書斎に「後醍醐天皇陵(如意輪寺・塔尾陵)鳥居古材」を提供しています。記念館は武四郎宛古沢龍敬書簡2通を所蔵しています。
以下本文から。

いつといふ間に〈四月十一日旧暦三月二日〉古沢氏と約せし頃にもなれば旅装とゝのへ、十二日〈旧暦三月三日〉七平、お幾代、おしげはステーションまで送り来る。袖を分ち、其夜は箱根湯本なる小川にて宿しぬ。

五日。大坂難波島の小西善導来る。夕方古沢龍敬様より帰る。


明治5年、維新政府は「修験道廃止令」を出し、そのために大峰修験も壊滅的な打撃を受けました。龍敬は隠居の身であったけれど復帰のために、様々な活動をしていました。その間の事情を聞き、武四郎は次のように記しています(文中の「□は今の処解読不能字」)。

そもそも此度龍敬君堺県え出張と云は、吉野と洞川の間の不宜は今を始めぬことながら、明治五年の頃、金峰の神社を此地の奥の宮とし、蔵王堂を山口の宮となし、総て真言、天台両派の修験を復飾いたさせしを時にし、洞川よりは山上の諸堂を我が物にせんと小篠の行者堂を山上の花□に引、種々山上に手を入約しけれども、何分本堂并に宮、院等皆吉野より□入る致せし事より此上何とも致し方なく、去年まで過ぎしが、十津川郷戸長某を以て種々県官地方懸りえ内願致し、また県会え□立入、、古川躬行、池田某〈高野山金剛峰寺の復飾也〉等を以て内願せし所、内務省乙第八十三号十年九月十八日に依て、大峰山上の地は洞川え所属致し候由、地籍改正懸りより申来る由、吉野の方にては今般改正懸りにて左様可有之候程に、明治十一年七月二十二日番外太政官達の内、二郡町村の区域ハ総テ旧ニ依ルト雖、郡界錯雑シ又ハ地形不便ナル者ヲ組替ヘ及ビ町村ノ飛地ヲ組替フル等不得止分ハ地方長官ヨリ内務卿ニ具状シ其許可ヲ受ケ施行スル事ヲ得ベシ。是につきて従来の如く有らしめんとす。一条、利非判ずべからず。依て願書并に地図等をさし出れば帰郷すと云々
岩本弥一郎

弥一郎との出逢いは次のように記されています。

(五月七日) 夜に入る比また追々客来り、取込が故に我は山上堂の前なる社務所え夜具を持たせ行止宿す。此処竹林宿坊と纔一丁半斗違ふ斗なるが、其寒き事また甚し。炉に大なる薪を多くくべて、夜ふくるまで語り合ひけるに、一人此社務所守は駿州静岡辺の元僧なりしが、明治御一新の際服飾して妹山岩根と改名して龍門村に住し、夏中此処え来ると。一人は十三才斗なる男児と十五才斗なる男児を連れて居けるが、是は北山郷西野村の者にて岩本弥一郎と云、当山無二の信者の由。兼て善導も極々懇意なりと。我が奥通りせんことを聞て、大に驚き至て叮嚀にもてなし呉たり。

山上ヶ岳での触れあいはわずかな時間でしたが、彼の大先達としての力を見抜き、十八年からの大台ヶ原登山では一番の頼りにした人です。
音無新太郎

熊野本宮の宮司。本宮のおいて武四郎を大いに世話してくれました。

御門を入て右の方社務所有。是え到る。音無宮司早宝物を西の方の礼殿に出して有たり。正面には、中の四社。并て東の四社。并て八百万神の社。中の宮の西に若宮、一の宮、神楽殿、二三の宮と七種並びたり

夕方帰りしかば今日は卯月八日とて草餅を出してけるが、音無宮司よりまた使して、小舟を命じて若鮎とりにいはれけるが、此川すじ総て急流にして石川なる故に外の国の投網とは異にして、巾二尺七、八寸、長二丈も有を下に鎮石をつけ、上に浮子を付たるを投てとること也。是また一種の網なりけるが、八日の□月夜にして明るかりけるその慰み、実に旅中の一興なりけり。宮司は国書にくわしく曽園歌を好まるゝ様に聞て詠を乞たりしかば明朝をと□して袖を分たれたり。夜また音無宮司、記録類を一櫃持らせ来りしが、何れも明和後の物なり。然し抄写様の物等有しを少しを写し置しが、往昔御幸の事は平城、清和、宇多、花山法皇、白川上皇、堀川、鳥羽法皇、後白河、後鳥羽、土御門、亀山上皇等、就中後白河法皇は三十四度将、治承年間には小松内府重盛、元暦のはじめは維盛其余公武の崇敬浅からず。次は聖護院、亦三宝院の御門主御一代必ず一度は御参詣有し社なり。また代々の撰集にも其御詠歌少なからず。


武四郎の諸家に揮毫を求めたサイン帳のなかに、音無の渋団扇もあります。「なつかしきものにもあるかうめのはなことしも春はおくれざりけり」と記しています。
また武四郎の「一畳敷書斎」には「紀伊熊野本宮誠證殿扉1枚」を提供しています。


渋団扇3-30音無新次郎

渋団扇3-30を読んでみました

2016.03.13UP

このwebページは、サイト『松浦武四郎案内処』に掲載されていたものです、管理者で著者の佐藤貞夫氏より許可を得て転載しています。ページには松浦武四郎記念館所蔵の「渋団扇」の画像が含まれますが、同館より掲載の許可を得ています。

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