修理に出されていた『大台山頂眺望図』が今画いたのではないかと紛うほどに新しくなって帰ってきた。2016年3月28日の「松浦武四郎記念館運営審議委員会」で披露されたが、しばらくは養生(記念館環境への馴れ)が必要なため一般公開は来春になりそうだとのこと。
 武四郎の3回に及ぶ大台ヶ原登山の動機については、一般に1.大台ヶ原には北海道の山を思わせるなつかしい雰囲気がある、2.明治初年に登った富岡鉄斎に勧められた、等が挙げられているが、はたしてそうなのであろうか。否定する気はないが、強固な意志を持つ武四郎にしては何か足りないように思う。
 明治13年、武四郎は大峰奥駈けを敢行した。奥駈け道を進む身の左に大台ヶ原の山々を眺めながら、未だ人々に親しい存在になっていないことに歯がゆい思いをしていたのではないか。すでに高野山は弘法大師によって、大峰は役行者によって開かれた。残る大台ヶ原は自分が開山の役に立ちたいと考えた。取り組んでいた「聖跡二十五霊社順拝」のための小神鏡奉納と石標設置には一応の目処がたった処で次の課題として選んだ。その気概は『大台山頂眺望図』の優婆塞もひじりもいまだけ分いらぬ 深山の奥に我は来にけり」という自讃歌によく表れている。他からの影響ではなく、自ら選んだ課題であった。12、13年に知り合った小西善導や岩本弥一郎の存在もおさえてある。
 大台ヶ原開山のために尽くしたい彼の背中をグイと押したもう一つのものは、実利(じつかが)行者の存在である。実利行者はすでに明治3年に大台ヶ原に入山して、牛石ヶ原を修行の場としていた。ここに小屋を建てて麓の信者達から生活上のサポートを受けていたと思われる。しかし、神仏分離、修験道廃止に熱心であった県当局から執拗な妨害を受け、小屋が焼き払われ、追放されてしまった。明治17年(1884年)4月21日、実利行者は那智滝の絶頂から座禅を組んだまま滝壷に捨身入定した。享年42。捨身行は修験で最高のものとされている。そのことが武四郎の心を動かし、牛石ヶ原めざして登山道の整備、小屋の再建をしたのである。牛石ヶ原の御手洗池の縁にたつ石碑には「実利行者修行地」と刻まれている。三登めの 明治20年、数十名の人々を集め護摩を焚いたのは登山道を示す石標、小屋の御披露目であった。
 18〜20年の武四郎の自筆稿本の中から実利行者に関する言及部分を拾い出してみよう。
稿本『乙酉紀行』五月十四日条
小祠有。是祇園牛頭天王にて天ヶ瀬村の鎮守。二丁斗にして岩本弥一郎宅に到る。家南向にして天ヶ瀬岳の南面に立。此村惣て畑地。後ろは見上る斗の峨々たる岩山に緑樹陰森と茂生り、西の方は峯中国見岳、南は向岳とて是また掌を立たる如し。谷川、此村の下にて北谷、西谷より落合て、西野村に至りて小代に到る。其案内の事を問えば、東川なる宮本村竹本忠兵衛 (七十一才)、此者幼年より当山中にて渡世致し居る者故、頼有るとの事にて是え則使を遣す。また西野村宮本清蔵は石茸取を業とする者故に、是をも頼有ればと此方にも使を遣す。夜に入、清蔵外三人ほど来りて山中の模様を語る。また西野村総代名主真田八十八は実利行者の弟子にて、行者牛石の修行中時に登山せしと聞をも使を遺し夜ふくるまで炉を囲て山中の都合を語らひける。

稿本『乙酉紀行』五月十五日条
微雨、粛々。蒙靄、谷に満。しばしにて少々風出来る故表に出て見るや、雨雲東より峰中国見岳の方にさし込けるが改に、今日も雨なりと、隣人も四五輩来りて評しけるが、しばし有て真田八十八なる者、一二人の村人を召連れて来り、一応挨拶の未、今度我が大台行を大にめで、都合により自らも登山せんと語らはれけるに、此者、実利行者とて生国美濃国にして元来御岳行者なりしに、慶応三年峯中笙の窟に籠り給て行を始め一千日籠居し、明治三年九月大台山牛石に移りて、自ら草庵を結て修行、同七年冬まで一千日修行有。其後城州八幡山に到り、其より処々千日の修行畢て、去る年紀州那智の滝より捨身したまゐし荒行の行者の弟子にて至て信者のよし。依て我一面をして此人可頼人と決心してけるが、先其座はそれにて相分れたり。外三人程同道の人何れ実利の門人のよしなり。十一時雨晴。十二時過より西風も吹来る。

稿本『乙酉紀行』五月十八日条
ほうそ兀。此処もまさき兀同様の処にして、また一等見はらしよろし。粉本沖、尾鷲沖より新宮川まで見ゆ。山白竹のわづか三五寸のもの青氈を敷つめたる如き処なり。こゝに小家斗の岩二ケ所、其間一丁を隔てゝ有。其西なるを、
牛石と云。東の方は何といへるか名しられず。こゝにまた二十畳斗敷る小池の深きもの有。水清冷、巴が淵にもますかと思ふ。其より二丁を隔てゝ西の角力場、東の角力場とて二つの低き地有。是も古しえは池にても有りしかと思はる。また水松の下枝長く生たるもの、五六株有て頗る風趣有るなり。此牛石の南にて濃州の産なる実利行者といへる人、明治三年八月登山して爰に庵して同七年四月迄修行。一度も村方に下らずして行すまさせられしなり。其後城州の男山に籠り、後紀州熊野那智の滝にて捨身有し行者なり。此奥山にて我等五人にて一宿さへ明し兼るに一千日の修行、実に世に目出度行者にてぞおはせしなり。今其跡に庵を毀ちし木材、家財等も其まゝ朽腐れて有しぞ忝く覚ける。其傍に行者自ら掘しと云井戸有て水よく湧出たり。南の方を望むに沖行船一目に見え、こゝぞ普陀落世界かと思はる。また是より大蛇ぐらの方に下らんとせしに、小池の水気なくして逆巻様に見えしが、亀市のいへらく此池度々如此事有。是竜神の御喜なりと行者はいひ玉ひしと。

稿本『丙戌前記』五月七日条
起て見れば川水三尺を増したり。急激吼々、山もゆるぐ斗に思はるゝなり。朝駒せしや主人の曰く、早五六寸減じたりと。八時頃に一尺を減じたり。惣て此源近き故に水の出るも早くまた減るも早し。正午半を減ず。東岸に一戸の家ありて、共に西原村なる大谷清次郎といへる者泊りたりと。是何故に来ると聞しが、夜前夕方我等に願事有とて来ると云。是牛石小堂の件と聞ば、其趣を聞んと思えども、此水を越る者なく、また西原村の者等も中々越がたしと云しかば、台所にて何か?々と語ふと思ふや、我等其使せんとて出行しが、川端に到りて丸裸体となり、二布を腹の処にまきて、白浪の中へ飛入や、流れ渡りに二十間斗も下に游ぎ着たり。其向岸の家に入りて便用し、今度は瀬の上まで徐々と歩行渡りにしてぞ帰りける。此東川の女どもは川渡りに得手なりと。此村はまた池原村の女は出水頃を越る時たりとも、二布を頭に巻て此川を越るよし。此川、小代より下にては東川、西川、前鬼川と三川合して頗る大なるををも少しも恐れざると。四時頃また向に越て大谷清次郎を手に引て渡し来りぬ。夜清次郎が実利行者に仕えし事等聞て休みぬ。

稿本『丁亥前記』五月八日条
鷲の窟に来る。此処上の岩、鷲の形に見え役行者の御影によく似たり。井て
笙の窟。是は風吹時は此窟に風の当りて笛の音に聞ゆる故に号るなり。昔し日蔵上人の籠玉ひしも此窟なり。水有。爰に火を焼て昼飯す。長治、清次も来り、また播州の道者十余名を連来る。今日暖和にしてければ、余は爰にて一睡したり。是迄の高僧大徳は皆此岩屋にて籠り玉ひしと。実利行者も爰にて千日寵り給ひしとかや。修行の者は九月九日山止りの節より米塩を用意して、来年の四月八日迄籠るを冬寵りの行者と云。

稿本『丁亥前記』五月十四日条
満山蒙靄にて包みし如けれども、今に最早晴べしと、出口村なる豊助を先導とし、清次郎、喜兵衛、亀市の四人を召達て出立。小屋の事は惣て八十八に跡仕舞を頼む。先、
牛石に参詣し、笹原を南の方に行こと五六丁にして少しの木立。こゝに細き川形有を飛て下る。是、
白崩谷の源なるべし。二十分斗行。谷と成る。是より白岩崩まで下る。甚難所。休らひては下り??三四度にして右の方笹原をまた二十分斗分け行。崩岸にて甚危ふく、過るや、
大蛇倉の下に出たり。是より又崩岩の上をしばし下り、左りの山に入る。此辺りより、
西の滝見ゆ。雑木原に入。熊のおどし籠伏多し。倒れ木等をわたりて、
ちゐの木谷(小谷)。白崩出合。此下にて本川を西に渡り、○したの尾○瀬戸左りに渡り○かま谷○庄の淵○棚○寄木○島のふち○藤のひか○きわだ小屋○とあさ○上板谷。此処に桧、杉十余株の木立有。其中に小堂有。 爰に薬師堂有。其前に籠屋有て居風呂を置けり。下に小さなる清水の池有て、硫黄気鼻を撲。眼病に至てよろしと。実利行者も度々此堂に籠り玉ひしと。また東岸まゝ二三丁下る。大谷とて近年まで人家有りし所有。宮本忠兵衛も、四年前迄は爰に居たりしとて、半潰破せし家残りぬ。

『大台山頂眺望図』上部

牛石ヶ原の御手洗池と石標

石碑の位置と刻字

2016.06.01UP

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