▲最近登った山▲2004年5月下旬  
 ▲5月24日、大台ヶ原を回りました。▲

5月24日(月)、東大台を回り、西大台も武四郎碑まで歩きました。

【山 名】
【山 域】
【天 候】
【形 態】
【コース】

大台ヶ原
台高
快晴
日帰り 4名
苔探勝路
東大台一周
西大台松浦武四郎碑まで
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調査のため
時間の詳細はとらず。
総時間=5時間30分


大蛇グラに咲くアケボノツツジ
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 昨年3月、『松浦武四郎大台紀行集』という本を松浦武四郎記念館から発行した。武四郎は晩年(明治18〜20年/68〜70歳)三度に亘り大台ヶ原に登り、その都度その山行記(「乙酉掌記」、「丙戌前記」、「丁亥前記」)を自費で発行している。この刊本にはそれぞれ稿本が残っている。読み物としては推敲のうえ出された刊本の方が読みやすくおもしろいのであるが、稿本の方が煩雑であっても詳細が分かる。
 彼の三度に亘る大台ヶ原登山の目的は何であったか。これは私の久しい謎であった。一般には耕作地等の開拓・開発であると言われている。しかし、そうであれば行動家の彼は耕作具を持って入山したはずであるが、そんな動きは一切ない。実際に大台ヶ原に登り、あちこち歩き、また武四郎の山行記を読み合わせて、最近やっと、彼の登台の目的は大台ヶ原を「毒蛇悪竜」すなわち猛威をふるう自然の世界から開放して人間に親しい世界に変えることにあったと思うようになった。
 「人間に親しい世界」にするにはどうすればよいか、彼の答えは「道」である。道を開き、道標を立て、休憩・宿泊の小屋を建てれば人が往き来するようになるのである。思い返せば、彼は「道」の専門家であった。そしてそれは実行に移されたのである。
 残念ながら百年以上経過した現代にあってはそれが忘れ去られている。何とか検証できないものであろうか。今までに大和岳・如来月・三津河落山等に立てられた山頂碑6つは見つけてあり、先日(5/6)日出ヶ岳でも1つ見つけた。ここまでのところはすでに報告済みである。あとは巴岳、正木嶺、牛石ヶ原であるが、前2者については立入規制があるのでできない。牛石ヶ原については登山道内であれば可能だ。ということで、24日に松浦武四郎記念館の人たち(休日利用)と早朝出発で出かけた次第。館の人たちは専門家だから、私の読めない石標の刻字を読んでくれるだろう。
 9時過ぎ、大台ヶ原山頂駐車場に着き、まず「苔探勝路」に入り、古川嵩翁墓にお参りする。戻ってビジターセンターに挨拶。詳しい情報をいただく。
 牛石ヶ原。明治20年、武四郎が道標設置、山小屋建設のお披露目を兼ねて数十人を集めて護摩修行を執り行ったところである。この付近に石標はないかと探す。牛石の傍らに道標に似た石柱があるのでこれを読んでみる。これはこの地で修行をした実利行者の修行跡を示すもので武四郎のかかわったものではなさそうだ。近くにある池(今は干上がっている)の周囲を注意深くみると、その両端に石柱が二つ無造作に転がっている。一つは横倒しになって草に埋もれ、一つは池の柵杭に倒れ込んでいた。これだ。柵杭にもたれている方の刻字は鮮明に読めたが、横倒しの方はよく分からない。裏返してみると、そこには「真田八十八/松浦武四郎」と記してあった。両方同じである。真田八十八は実利行者の弟子であり、松浦武四郎の大台登山のブレーンの一人であった。同じくブレーンであった岩本弥市郎、井場亀市郎の名を刻んだ山頂碑はすでに確認済みで、次は真田八十八と期待していたのでこの発見は嬉しかった。このことについては後日一項を設けたい。
 念のために触れておくと、これらの山頂碑は、当時山名があいまいであったのを確定し、同時に道標ともするためのものであった。個人名が入っているのは、現在よくある自己宣伝臭の強い登頂記念プレートのようなものではなく、案内人としての責任において設置したことを示すものである。必要かつ有用なものだ。山登りをするものはその保証のもとに安心して山登りを続けることができる。
 昼食後、西大台に回る。ナゴヤ谷の上、1532ピークに松浦武四郎の分骨碑がある。あたりに古い墓標や卒塔婆のたっているところである。ニホンオオカミの研究で知られる岸田日出男翁の名前もある。その一角に松浦武四郎の分骨碑があり、近々三雲中学の2年生100名もやってくるということだ。お参りをして先程の石標発見の報告をした。「あと2つどこかに立ててあるからね」という声が聞こえたように思ったが、空耳であったのだろうか。


松浦武四郎分骨碑

武四郎の愛したナゴヤ谷

アケボノツツジ−1

アケボノツツジ−2

シロヤシオ−1

シロヤシオ−2

大蛇グラ−1

大蛇グラ−2

シャクナゲ

新緑

このwebページは、サイト「松浦武四郎案内処」に掲載されていたものです、管理者で著者の佐藤貞夫氏より許可を得て転載しています

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