武四郎は幼いころから「探検・旅行・登山」を志す人であり、大台三登はその集大成であった。彼の「探検・旅行・登山」は、放浪型のものではなく、目的をもった調査型のものであった。その足跡は日誌として記録され、膨大な稿本を生み、そのいくつかは出版された。
 2018年は武四郎の生誕200年にあたり、顕彰の諸行事が進行中である。彼の大台ヶ原三登についても関心が高まっているので、まとめを記しておきたい。

 武四郎の3回の大台ヶ原への登山について確認したいことは次の6点である。
 
確認の第一は「武四郎の大台三登は、開拓のためではなくて、開山・開路のためであった」こと。
 武四郎は道の専門家である。それは蝦夷地において大いに発揮され、厖大な著作と地図になった。その経験から大台ヶ原を開くには、登山道と道標の整備、休憩・宿泊のための小堂(小屋のこと)建設が大切だと思い、それを実行した。当時大台ヶ原は大阪府の管轄下にあったので、府知事宛に石標設置と小堂建設の願いを出しているが、ここには武四郎の切なる気持ちがにじみ出ている。
 
確認の第二。「登山道整備・小堂建設」は、大台ヶ原西麓の西原・天ヶ瀬の人々の支えによって行われたこと。
 
中でも天ヶ瀬の岩本弥一郎の存在は大きかった。弥一郎は大峰の先達(案内者・指導者)であった。明治13年の大峯奥駆けの時に知り合い、わずかな触れあいであったが、弥一郎を「当山無二の信者」と見抜いている。それ以降、武四郎は弥一郎と手紙のやりとりをして連絡を取り合い、5年後に大台ヶ原探検の案内を頼むのである。
 武四郎が大台ヶ原に登ることになったのは、友人富岡鉄斎の勧めがあったからだとされている。それを否定するわけではないが、彼のもともとの大台ヶ原に対する関心の深さ(『庚辰紀行』の高見峠での記述、奥駆け中の眺望)もあり、また弥一郎との手紙のやりとりで様々な知識を得て、あこがれていたのではないか。また実利行者の存在を知り、実利行者に対する崇敬の念を持ち始めていた。その中で明治17年4月21日の実利行者の捨身行による死去を知って衝撃を受け、大台ヶ原に出向く決意をさせたのではないか、と想像する。
 山登りには沢を詰めるやり方と尾根伝いを行く場合とがあり、登山道もそのようにつく。武四郎は天ヶ瀬から伯母ヶ峰にあがった後、経塔石から大和岳〜巴岳に歩くのがよかろうとそれぞれの山頂に山名と協力者の名を刻んだ石標を建てさせた。名古屋岳頂上碑には岩本弥一郎の名があり、日出ヶ岳には井場亀市郎の名がある。武四郎はのち亀市嘯フ妹きよを養女として東京に招いている。石標建設については協力者からなにがしかの資金援助を受けたかもしれないが、基本的には武四郎負担であった。経塔石から巴岳までで7基である。
 武四郎の岩本弥一郎宛の葉書が弥一郎ご子孫の岩本泉治氏宅に多数残されている。18年の旅に出る前の3月29日付の葉書には、はっきりと「大台山へ参詣人出来る様にいたし度候」と記していて、初めから開山の意志を持っていたことがわかる。
 
確認の第三。大台三登めの、牛石ヶ原での護摩修行は地域住民へのお披露目儀式であったこと。
 牛石ヶ原は実利行者の信者や修験者にとって聖地である。武四郎はここに観音か不動の祠を建てて大勢の信者や登山者を迎えたいと考えていた。20年にはここで数十名の地元住民の参加を得て、実利行者に対する護摩供養を挙行することが出来た。お披露目儀式といえる。別な見方をすれば大台ヶ原開山式ともいえる。21年にも大台ヶ原に登ることがあったならば、祠を建てることが大事な目的となったに違いない。だが、志半ばで倒れてしまった。
 先に確認した山頂碑は、その後日出ヶ岳を経て牛石ヶ原に至る。換言すれば、山頂碑は牛石ヶ原=聖地に誘うための道標であった。
 日出ヶ岳からの石標の並びは東大台で実際に確認することが出来る。巴岳までで7基、日出ヶ岳から5基、合わせて12基であった。ただし「マサキ峠/奥村善松」の石標は現在行方不明である。日出ヶ岳山頂には「日出ヶ岳/井場亀市郎」と彫り込んだ石標が三角点碑と並んで建っている。時にケルンの基礎と間違われて石が積まれたり、足蹴にされたりしている。実に嘆かわしいことだ。あと3基は真田八十八と連名で建てられている。真田八十八は修験道の行者で、実利行者の熱心な信者であり、身の回りの世話をする支援者であった。側面の地名表記に修験道の影響が認められる。
 
確認の四点目。『大台山頂眺望図』は1点からの鳥瞰図ではなく、明治18年の大台行を進行につれて視点を移しながら描いたものであること。
 これを単なる眺望図と見て、どこから描いたのかと鳥瞰する1点探しに躍起になると、ついには「この絵はむちゃくちゃだ」と非難し鑑賞をやめるかもしれない。
 彼は野帳を必携しており、山行時に得た情報のみならず、スケッチもたくさん描いていた。稿本、刊本にその一端を見ることは出来るが、残念ながらその全部をみることはできない。現在カメラを回しながら前に移動して眼前の事実を表現する動画を考えてみれば分かりやすい。眺望図は大量のスケッチの合成図である。武四郎の大台登山は、天ヶ瀬出発に始まり、紀北町木津に下山し、両宮参拝で終わる。このことは丙戌、丁亥でも同様である。
 『眺望図』最上部には、右に自画讃のようなことばと左に和歌を記している。右の「勢和紀三州之界大台山頂眺望之図」はいわば標題のようなもの。これに従ってこの絵を『大台山頂眺望図』と呼んでいる。「勢和紀三州之界」は大台ヶ原を説明する際の常套句であるが、これを書いた時点で武四郎はある種のジレンマを覚えたのではないか。自分は確かに大台ヶ原に登ったけれど、和紀二州を歩いただけで勢州に関係付けられなかった。伊勢側から大台ヶ原に登る道はないのか。この思いは19年の大杉谷への挑戦となる。だが不動谷まで遡って、台高山脈の尾根に近いことを感じながら、引き返さざるを得なかった。これも21年以降に思いを残した。最期までかれの探究心と行動力は衰えなかったけれど、それを死というものが阻んでしまった。
 刊本『乙酉掌記』の冒頭に「大台山跨紀勢和三熊野に人跡未通地也。役小角、行基、空海も不入錫域にて審之者なし」と言っている。「優婆塞・ひじり」は大峯や高野山を修行の場とした役行者や空海のことを言う。不遜な感じもなくもないが、「我は来にけり」とする自負心は許せるのではないか。自負心は開山の決意として高まればきわめて生産的なことである。
 石標設置とともに、「両三ヶ所」に建てたいとしていた「小堂」は参詣人、登山者のための休憩・宿泊所であるが、130年の時の流れで朽ち果てて、跡形がない。諸説があるが、確定しがたく、仮に「元小屋谷(元木谷)・高野谷(開拓場)・ナゴヤ谷」と見ておきたい。明治28年、植生調査のためにこの地を訪れた白井光太郎は「大和吉野より大台原、釈迦岳、弥山、山上岳を経て、再び吉野に出づる記」と題する探訪記を書いているのが参考になる。
 今は自由に入れない西大台(入りたい場合は手続きが必要)に入るべく、大台教会の前を行くとしばらくでナゴヤ谷を横切ることとなる。武四郎はナゴヤ谷の風景を愛していた。稿本『丁亥前記』本文中に、「来春」は「一字一石の法華」を書きたいとしているから来年もここに来る予定にしていたのだ。
 余談であるが、武四郎はマンサクの花を愛していた、という逸話はナゴヤ谷で武四郎が現地ガイドたちに洩らした一言から出ているのかもしれない。記念館の駐車場には、イスノキを台木に接ぎ木されたマンサクの木が一本植栽されている。エゾヤマザクラ、カジノキと並ぶ記念館のシンボルツリーである。
 ナゴヤ谷を左岸から右岸に渡って暫く行くと、右の高みに緩やかに登っていく道がある。御霊丘と呼ばれている(たぶん大台教会の用語)。木々に見え隠れして松浦武四郎追悼碑が現れる。分骨碑とも呼ばれている。武四郎のなくなったのは明治21年2月であるが、遺言に従って建てられたものだ。建てたのは息子の一雄で翌22年のことであった。市河万庵の字、幹事には井場亀一郎や岩本弥市郎の名もみえる。白井光太郎は同碑もスケッチしている。この追悼碑はのち倒れて折れてしまった。現在あるのは一志郡三雲村(当時)の宇野村長の肝いりで再建されたものである。
 
確認の第五。第二登を終えてからの大杉谷入渓は、伊勢からの登山道を模索していたこと。
 大台ヶ原を中心にして地図を見ると、下半分は紀伊である。上半分の左側は大和、右側が伊勢である。彼が歩いてきた道は紀伊と大和に限られていて、伊勢に下りる、または伊勢から登る道は一本もない。ぜひ大杉谷からの道を探索して道を開きたいと念願していた。大杉谷の遡行は今でも極めて危険な事である。奥定宮近くで炭焼人にこれ以上は危険だから帰れとさとされたのは当然のことである。しかし彼は果敢に歩を進め、不動滝で行き詰まってやっと諦めたが、伊勢からの道を模索していたと言える。彼がもし21年に死去しなかったならば、必ずやこの道を見つけ開こうとしたに違いない。
 さて、ここまでがこれまでの確認(
『大台山頂眺望図』をめぐって(2017.10.08講演会概要)であるが、
六点目として付加したいことは「実利行者」の存在である。武四郎は実利行者の遺志を継ごうとしていた。
 
武四郎を大台ヶ原に惹きつけてやまなかった大きな理由はここにあった。
 改めて『大台山頂眺望図』を眺めてみよう。この眺望図は前述のように単なる鳥瞰図ではなくスケッチの合成図であった。その中でも中心になっているのは大台三滝であり、またその中でも「中の滝」に目がいく構図である。中の滝の落ち口に「坐禅石」が描かれている。
 中の滝は稿本にも刊本にも挿絵が描かれているが、これと相似する滝の挿絵が13年の稿本『庚辰紀行』にも描かれている。即ち「那智の滝」図である。
 この那智の滝の落ち口には滑らかな大石があり、ここで坐禅を組む行者もあった。実利行者もその一人で、明治17年4月21日、坐禅を組んだまま滝壷に捨身入定した。
 実利行者は明治3年から7年にかけて大台ヶ原の牛石ヶ原に小屋を作り修行していたが、「修験道廃止令」(明治5年発布)のもと官憲の忌むところとなり、小屋を焼かれる等の弾圧を受けた。武四郎が大台ヶ原の登路を整備し、小屋を作ったのは実利行者の遺志を継ごうとしたものではなかったか。
 武四郎は、実利行者に関して、明治18年の稿本『乙酉紀行』の中で 右記のような言及をしている。
 岩本弥一郎は実利行者の熱心な信奉者、信者であったから、実利行者に関する情報は、武四郎が大台ヶ原に赴く前すでに弥一郎からもたらされていた。
 真田八十八は実利行者の信者であり、牛石ヶ原における修行を支えていた人物である。明治20年の、牛石ヶ原における護摩修行は真田八十八に主導してもらった。真田八十八とは連名で片腹鯛池と御手洗池のほとりに3基の石標を建てている。そのうちの1基には「實利行者修行地」と刻まれている。武四郎は牛石ヶ原が実利行者の修行地であり、彼が畏敬すべき存在であると顕彰したかった。武四郎の3回にわたる大台ヶ原登山は、開山・開路のためであったが、その最終目的地は牛石ヶ原であった。ここに祠を作って観音か不動の像をおさめ、あわせて実利行者を顕彰しようとした。もし明治21年彼が健在であったならば、牛石ヶ原に小さな祠が建ったのではなかろうか。
 以上を踏まえて、2018年の「生誕200年記念行事」として
「東大台周遊トレッキング」が実施されるならば、「聖地(実利行者修行地)牛石ヶ原をめざそう!!」を惹句としてポスターを作ってみたい。「聖地」ということばは人々になじまないかもしれないが、実利行者の修行地をいうに最適のことばである。

2018.09.08

このwebページは、サイト『松浦武四郎案内処』に掲載されていたものです、管理者で著者の佐藤貞夫氏より許可を得て転載しています。ページには松浦武四郎記念館所蔵の『大台山頂眺望図』が含まれますが、同館より掲載の許可を得ています。

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