実利行者の足跡めぐり

坂下 実利教会

岐阜県中津川市坂下高部  2006年9月10日
現在の教会は昭和15年(1940)に吉村好源氏が中心になり、以前の講社の信者を集め再開されたそうです。金峯山修験本宗に属し、行者講の信者は約300名に上るそうです。境内には信仰の中心となる行者堂が建ち、まわりには行者の兄弟の石碑、先平霊神石像、栲幡千千姫命、愛染明王と棚機姫命の石碑、万霊塔と行者の父の墓石、実利行者石碑、舎利塔、孔雀明王堂、吉村好源之碑、可知真一之碑、行者に帰依した古井乙吉之碑、八幡祠などが祀られています。

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境内



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行者堂



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舎利塔

(以下は A・マリ ブッシイ著 『捨身行者 実利の修験道』 角川書店 1977年発行 P41~43より)
 明治13年11月には、現在の実利教会の境内にある舎利塔を建立する。この舎利塔は、伝承によると、実利行者が前鬼で修行の時、鴻池家に頼んで、インドから持ち帰って貰った釈迦仏の御分骨を祀るために、建てられた塔であるとされる。なお、その翌14年仲夏(5月)に(それまでに坂下に滞在したと考えられる)、実利は「舎利礼文」を作った。鴻池家との関係は明らかではないが、行者は鴻池家の祖母の不治の病を祈祷で治したから、この御分骨を貰ったのだと実利教会ではいっている。その上、彼は経済的な援助を受けたが、その金は後に大峰の山道修繕のために使われた。(中略) 実利教会の伝承によると、この里帰りは「最後の里帰り」であったといわれ、これからさき本来の修行場である大峯山に戻って厳しい行を行うことになる。一方、宗教的及び社会的な活動にも献身するのである。



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実利行者の碑文

明治35年(1902)建立




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実利大行者尊三十三歳生像

実利教会所蔵  幅約31cm 高さ約87.5cm(本体寸法)
『捨身行者 実利の修験道』(p91)に於いて、実利遺物として紹介されている三つの肖像の一つです。木葉衣を着ている肖像はめずらしく、これは役行者に近い姿であると紹介されています。同書では恵那市足立家の所蔵となっていますが現在は実利教会が所蔵されています。



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五仏五大力曼荼羅

実利行者筆  実利教会所蔵   幅約57.5cm 高さ約117cm(本体寸法)
この五仏五大力曼荼羅は実利教会の境内に建つ舎利塔にも刻まれています。

 

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猫さま

実利行者筆  実利教会所蔵   幅約44cm 高さ約28cm(本体寸法)
梵字を刷毛筆で猫の形に書いた養蚕の守り神。

『捨身行者 実利の修験道』(p41)によれば、明治13年3月7日に名古屋で巡礼を終えた実利行者は坂下に戻りました。そして病気になっていた父親の看病をします、しかし同13年7月17日に亡くなった父親の葬式を行いました。『五仏五大力曼荼羅』と『猫さま』は実利行者自筆の梵字の掛軸で、その時世話になったところに感謝の意味で贈ったものとされています。二つの掛軸に見られる刷毛筆による梵字の書き方は、当時の前鬼の森本坊(五鬼継)がこれを教えることで有名であり、20年前(昭和32年)前鬼に立ち寄った奥駈けの登山者、二河良英氏(ブッシイ氏が指導を受けた那智山麗の郷土史家)が同様の『猫さま』を見ています。実利行者は前鬼でよほど梵字の練習をしたと思われ、熱心に勉強をして下北山村に天台派の『種字集』一冊を残しました。




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実利霊神の護符




実利大行者尊三十三歳生像をはじめ、この度の撮影には実利教会の林教会長に大変お世話になりました、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。

(6/17 2011)



実利教会再興に関わる宗教弾圧と宗派の変遷

現在の実利教会は昭和15年(1940)、吉村好源、古井乙吉、可知真一氏が中心となり以前の講社の信者を集め、金峯山修験本宗に属した教会として再興されました。しかし以前より私が疑問に思っていたのは、聖護院と関係が深かった実利行者をお祀りする教会が、なぜ金峯山修験本宗に属しているのかということでした。長い間この問題を放置していましたが、坂下神変教会吉村雅之教会長取材の際、その疑問が明らかになりました。

 実利教会の前身は可知かい氏(実利行者の妹)が中心になり、幾多の困難を乗り越え明治35年(1902)4月21日に発足しました。この日は実利行者の命日に当たり、教会の発足を命日に合わせたものと思われます。しかし昭和10年(1935)、新宗教「大本」の第二次宗教弾圧に端を発した宗教弾圧が坂下にも及んだものと思われ、坂下の修験を代表する人々は特高警察に拘束され、暴力による厳しい取り調べを受けたそうです。実利教会の再興に尽力した古井乙吉氏は厳しい取り調べに抵抗し、一言も口を開かなかったそうです。官憲は古井氏を椅子に縛り付け殴る蹴るの暴行を加えましたが、倒れて気を失ってもついに最後まで口を開かなかったといいます。この取り調べは組織を解体することが目的であったようで、実利教会や坂下神変教会は解体を余儀なくされました。しかしそれでも屈することなく、有志は教会の再興に尽力し、それまで属していた聖護院ではなく金峯山寺に属する教会として再興を果たしました。この時、以前より属していた聖護院ではなく、なぜ金峯山寺の帰属になったのかは不詳ですが、金峯山寺への帰属が再興に有利に働くと判断されたようです。

国家神道に基づく宗教弾圧は、事実上、昭和20年(1945)年12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が神道指令を発令するまで続きました。

吉村好源(俗名、金三)氏は実利教会再興に尽力し、後の初代教会長を務めました。坂下神変教会前教会長吉村峯安氏(覚誠院峯安行者)とは修験者の同志でした。古井乙吉氏は実利行者に帰依して教会のために尽くした人物です。可知真一氏は可知かい氏(実利行者の妹)の直系の孫にあたります。昭和24年、同19年(1944)に東南海地震の被害を受けた那智のお墓に私財を投じ、再建に尽くしました。実利教会境内には各氏の功績を称えた石碑が立てられています。先人のご苦労が偲ばれます。

(5/21 2018)














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