実利行者の足跡めぐり


牛石の孔雀明王碑

牛石ヶ原  奈良県吉野郡上北山村大字小橡  2012年8月


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牛石と孔雀明王碑    2012年6月6日 撮影(北東方向)


上の写真で牛石の右手前に建てられ、牛石を繋ぎ止める杭のようにも見える石柱が「孔雀明王碑」です。牛石に押されたかのように少し手前に傾いていますが、この「孔雀明王碑」こそが、実利行者が大台ヶ原に残した現在確認することができる唯一の遺物です。この「孔雀明王碑」について私が現在知り得る記録は、大和山林會報版『大臺原紀行』と『捨身行者 実利の修験道』(p39)木曽御嶽行者篠原源岳の手控えです。2006年10月、牛石と「孔雀明王碑」を確認するために初めて大台ヶ原を訪れました。牛石の周りには予想外のロープが張られ近づくことができませんでした、そのため石碑の文字をはっきり確認することはできませんでしたが、実利行者が建てた「孔雀明王碑」に間違いないと確信しました。そしてこの地で実利行者が修行していた当時の様子が想い浮かびました。私が訪れる春や秋の陽気のよい時はさておき、年間200日もの大雨、冬の最低気温は当時マイナス15度にもなろうかといわれる牛石ヶ原に於いて、風雪をものともせずひたすら修行に打ち込む実利行者の姿を想い浮かべ感動したことを今でも思い出します。現代とは違って、大した病気でなくても運が悪ければ命を落とし、まして一回の千日行でも命がけの時代に、幾度もの千日行を繰り返し敢為できた実利行者は、計り知れない能力の持ち主だったと思います。その後も何度か上北山村を訪れていますが、大台ヶ原まで足を伸ばす機会がありませんでした。ところが今年の5月、大和山林會報版『大臺原紀行』がネット上に公開されました。それを見ると「孔雀明王碑」に刻まれている文字について、「篠原源岳の手控え」(『捨身行者 実利の修験道』p39)と相違があることがわかりました。

大和山林會報版『大臺原紀行』
 此の實利なるもの牛石の南東邊に一碑を建つ。面に孔雀明王、左に陰陽和合、右に諸魔降伏の字あり。脊に實利及丞の花押あり。左側に明治七年戊三月と記す。

『捨身行者 実利の修験道』(p39)篠原源岳の手控え
 大台ヶ原に登り此山内を廻る内、諸魔除伏陰陽和合、度々孔雀明尊、明治七年建立、実利印。こんな石柱が牛石という所に建ててあった。

それぞれが表している内容はおおむね共通していますが、実際にはどのようになっているのか、再度現地へ行って調べました。




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孔雀明王碑  正面(東)



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孔雀明王碑  左側面(南)と 右側面(北)

牛石はほぼ南北に沿うように位置し、「孔雀明王碑」は牛石の南東邊というよりは、ほぼ南の傍に正面を東に向けて建てられています、正面の幅約19cm、奥行き約18cm、地面より45cm程の高さです。長い年月を経ているために苔がはびこり文字が読みづらくなっています、また当時と比べ現在の地表は堆積物によりかなり高くなっているようです。

正面には三行の文字が並び、中心には「金剛界大日如来を表すバンと思われる梵字から始まり孔雀明王尊」、左の行は「陰陽和合」、右の行は「諸魔降伏」となっています。左側面(南)「實」は認めることができますが、その下にあると思われる「利」及「丞」の花押は地面に潜っていて確認することができません。右側面(北)は「明治七甲戌三月摩訶日」となっています。背面(西)は苔などがはびこり不確かですが何も刻まれていないようです。

今回の調査によって、『大臺原紀行』の「碑」の記述が事実とは相違していることが明らかになりました。相違点は次のようになります。
1)『大臺原紀行』では「實利・丞の花押」(下線部分は未確認)は「背」となっていますが、実際には向かって左側面(南)であることが分かりました。
2)『大臺原紀行』では「明治七甲戌三月摩訶日」は「左」となっていますが、実際には向かって右側面(北)であることが分かりました。
3)『大臺原紀行』では「背」に「實利及丞の花押あり」と記述されていますが、実際には背面(西)に文字は認められませんでした。

結論として、二つの文書には異なる箇所が僅かに見られますが、現在牛石の傍に建っている「孔雀明王碑」を記録したものに間違いないと思います。なお、ロープ内の立ち入りについては大台ヶ原ビジターセンターにお願いをして許可をいただきました。

(2012年8月11日)

「大和講農雑誌」の「大臺原紀行」    8/3 2015
本欄では「大和山林會報」の『大臺原紀行』を引用していますが、このたび見つかった「大和講農雑誌」の『大臺原紀行』と、本欄の説明との間で幾つか相違があることが分かりました。僅かな相違についてはあまり影響が無いと思いますが、中でも問題となるのは実利行者の花押についてです。「大和講農雑誌版」は、版を組む際にわざわざ造ったと思われる活字「kao.jpg」が使用されていることが分かりました。これは『大臺原紀行』原本には「花押」が描かれていた可能性が高いことを示しています。「大和講農雑誌版」を底本とした「大和山林會報版」は、おそらく「kao.jpg」に似ていた「丞」の活字を間に合わせで使用したものと思われます。しかし、花押の問題を除けば資料として不足はなく、本欄は「大和山林會報版」の引用を継続することにいたします。

kao.jpg 花押の画像は、サイト「き坊の棲みか」『大臺原紀行 大和講農雑誌 版』より転載させていただきました。

 

岩塊に立つ孔雀明王碑

(12/07 2015)

風変わりな印象を与える<写真1>は「大台ケ原・大峰の自然を守る会」の元会長、米田信雄氏によって撮影された写真です。孔雀明王碑に興味をお持ちになった前会長の田村義彦氏が、米田氏の資料を整理された際に見つけられました。転載を快諾していただきました田村義彦氏には心より感謝いたします。

まず、「孔雀明王碑」が牛石の隣の岩塊に台座と共に乗せられている姿を見て驚きました。また、腰の高さくらいまで生えていたといわれるミヤコ笹がほとんど確認できません。撮影日時は不明ですが、「孔雀明王碑」の台座の存在がはじめて確認できるたいへん貴重な写真です。記録によれば、牛石ヶ原に一面に生えていたミヤコ笹が、昭和30年(1955)に一斉に枯死したようです。田村氏のお話では、ミヤコ笹が一斉枯死した後、昭和34年(1959)に伊勢湾台風、昭和36年(1961)第二室戸台風と相次いで襲われ、風衝地で台風の通路であった正木峠〜正木ヶ原〜牛石ヶ原の稜線では大量の樹木が倒れたそうです。米田氏が撮影されたのは、その後の昭和37年(1962)頃ではないかということでした。その後、昭和38年8月20日に岡田庄三氏が撮影された写真のなかに、枯れ木、ミヤコザサの状態が<写真1>とほぼ同様と思われる写真が数枚見つかったとの情報をいただきました。岡田氏は後の昭和40年、41年にも撮影され、ミヤコザサがやや成長した状態が記録されているそうです。岡田氏の写真は現在<写真2><写真3>の出典元「大台ヶ原」に公開されています。


<写真1> 牛石ヶ原 推定昭和38年(1963) 撮影:米田信雄氏 写真提供:田村義彦氏

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「大台ケ原・大峰の自然を守る会 自然保護ニュース」/増補改訂版『大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる(6)』<写真>より転載。


<写真2> 大臺山嶺靑檀熊笹ヲ敷ケル牛石ケ原 (實利行者ノ苦業シテ天魔ヲ封ジタ廣原ノ原野) (其七) 大正7〜10年(1918〜1921)  写真提供:成瀬匡章氏

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「奈良県立図書情報館 ITサポーターズ」「奈良の今昔写真」「大台ヶ原」より転載。出典は大正7年〜昭和8年頃となっていましたが、牛石の周りに杭の囲いがなく<写真3>より判断をして、大正7〜10年(1918〜1921)の写真としました。


<写真3 郡山高等女學校第一回大臺ヶ原登山 (其六) 大正11年(1922)8月25日 撮影 写真提供:成瀬匡章氏

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「奈良県立図書情報館 ITサポーターズ」「奈良の今昔写真」「大台ヶ原」より転載。

2018年7月、田村義彦氏より<写真3>についての情報をいただきました。情報によれば、奈良県吉野郡大淀町に寄贈された岸田日出男氏の遺品を調査される中で、偶然この写真に関係する資料を見つけていただきました。見つかったのは、郡山高等女学校第一回大臺ヶ原登山の報告書とされる『大臺へ上るの記』という資料です。著者は奈良県郡山高等女学校登山隊となっており、著者の個人名は無いそうです。「山岳部」の文字も「第一回」の文字も無いそうです。一行の名簿には(生徒)13名の氏名と、(付添)として校長 荻原太郎、教諭2名、写真師の氏名が載っているそうです。大正11年8月23日入山、27日下山です。撮影日は8月25日とのことです。


これからが本題です。初めて岩塊の上に立つ「孔雀明王碑」を見たときの印象は、牛石の南東邊の平地に立っていた碑を誰かが岩塊の上に移したものと考えました。数日あれこれ思い巡らすうちに、何か手がかりがないものかと牛石ヶ原の古い写真をネット上で検索してみました。その結果牛石と「孔雀明王碑」が確認できる2枚の写真を見つけました。そのうちの1枚が<写真3>ですが、もう1枚はサイズが小さく、出所が不明で掲載できませんでした。しかし、その後「奈良県立図書情報館 ITサポーターズ/奈良の今昔写真/大台ヶ原」のページに、小さくて掲載できなかった写真と同じと思われる写真<写真2>が掲載されました。この写真は米田氏撮影の写真よりも遠くから撮影されていますが、「孔雀明王碑」と「牛石」の位置関係がよく似ています。そして、画面右には角塔婆が立てられているのが確認できます。

これらの写真を見比べるうちに、「孔雀明王碑」と牛石の天辺の高さが同じぐらいに見えることに気がつきました。そしてこの時点で思いつきました、これはひょっとしたら碑は元々この岩塊の上に立っていたのではないのかと。<写真1>の岩塊は現在も牛石のほぼ南東に存在し、『大臺原紀行』の「牛石の南東邊に一碑を建つ」と位置が一致します。そして<写真2・3>の笹を除けば<写真1>と同じように見えるのではないでしょうか。逆に言えば、唐桧の立ち枯れはさておき、<写真1>に笹を生やせば<写真2・3>のように見えるのではないでしょうか。もし「孔雀明王碑」が平地に立っていたとすれば、2枚の写真のようにミヤコ笹が一面に生えている状態では、おそらく石碑の天辺が笹の上に顔をのぞかせる程度ではないでしょうか。2枚の写真を見るかぎり、平地に立っていては道理に合いません。

以上の考察から、「孔雀明王碑」は元々この岩塊の上に立っていたといえるのではないでしょうか。少なくとも大正11年(1922)から昭和30年(1955)までは、その状態であったと考えてよいと思います。何れかの時点で現在の場所へ移されたのでしょうが、その経緯は判然としません。ミヤコ笹が一斉に枯れて不自然に見えるようになったので、誰かが今のように地表に下ろしたのかもしれません。『大臺原紀行』に記述されている「牛石の南東邊」とは違い、現在ほぼ南のへりに立っている訳がこれで理解できました。しかし、歴史的な遺物を現在の場所に台座も確認できないまま放置してよいとは思えません。不安定な岩塊の上に戻すのは現実的ではないとしても、史実に基づき然るべき所へ安置するのが望ましいと思います。


<参照写真> 平成24年(2012)6月  撮影
ushiishi-sansho.jpg<写真3>と比較して南寄りの位置から撮影しています。牛石の大きさが同じくらいに見えるようにサイズを合わせました。写真の左端に見えるのが現在の「孔雀明王碑」で、牛石のほぼ南に立っています。手前の岩塊が<写真1>に於いて「孔雀明王碑」が乗せられている岩塊ですが、牛石のほぼ南東に位置しています。撮影アングルや画角に差がありますが<写真3>と参照してご覧ください。牛石と岩塊の関係がおわかりいただけると思います。



その後確信につながる写真があればと思い、方々を探してみました。その結果灯台下暗しで、蔵書の『卋界の名山 大臺ヶ原山』 大台教会本部 大正12年7月10日発行の図版写真の中に「牛石ヶ原神武天皇御手洗ノ池附近の全景」が掲載されているのを見つけました。

<写真4> 牛石ヶ原神武天皇御手洗ノ池附近の全景

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残念なことにこの写真も撮影時期が不明ですが、発行日の大正12年7月10日以前に撮影されたことは間違いないでしょう。牛石の周りに杭の囲いがなく、<写真3>よりも以前に撮影された可能性があります。<写真1・3>と比べると南よりの方角から撮影されている様子で、カメラアングルも低いところから撮影されているように見て取れます。この写真を見ても「孔雀明王碑」が岩塊の上に立っていなければ説明がつかないのではないでしょうか。


また同書からは<写真3>に類似する高等女学校による登山の記述を見つけました。『卋界の名山 大臺ヶ原山』の出版に際し、野村傅四、奈良県師範学校長 古川正澄、奈良県女子師範学校教授 岩城準太郎が感想を寄せています。この登山は婦人団体としては初めての大台ヶ原登山で、世間の注目を集めたとされています。野村傅四は同書「感想」(p32〜38)の中で、「大正11年7月、女生徒約30名、その他20名足らず、合わせて50名に近い一行の団長という資格で大台登山を決行した。(中略)愈々25日出発、山上2泊、途中往復とも1泊ずつ、都合4泊5日の登山旅行を至って無難に、至って愉快にする事が出来た」と述べています。「感想」末尾には大台ヶ原登山に参加した、郡山高等女学校生徒の感想が掲載されています。

前出の奈良県吉野郡大淀町に寄贈された岸田日出男氏の遺品から、野村傅四率いる登山の資料『大峯山脈及び大臺ヶ原とその登山者』(作者未署名)も確認されました。資料によれば、桜井高等女学校は大正11年夏(月日不明)に生徒25名が野村傳四校長初め、職員富田、中山、奥山、村井、牧村各教諭引率の下に、大臺へ登山しています。この資料は(月日不明)となっていますが、同書の記録から、7月25日〜29日としてよいでしょう。郡山高等女学校大臺ヶ原登山よりおよそ一ヶ月前の登山であり、同書記述の「この登山は婦人団体としては初めての大台ヶ原登山で、世間の注目を集めたとされています」と整合性があります。


岸田日出男氏の遺品を受けた大淀町の公式動画チャンネルには、遺品の映像がYouTubeに公開されています。その中には、<写真3>郡山高等女学校大台ヶ原登山に関わる映像が含まれていますので紹介させていただきます。

「岸田日出男の遺したもの ダイジェスト版」の1:17には、大台ヶ原登山に参加している郡山高等女学校生徒3名が記録され、撮影日が付記されています。この時女学生は<写真3>でかぶっている編み笠ではなく、制帽と思われるヒダ付きの帽子をかぶっています。

「岸田日出男の遺したもの 吉野群峯・第3巻(1922年)」は、内務省衛生局撮影隊の撮影とされ、前半部分には大台ヶ原登山の様子が記録されています。大臺教会に到着する撮影隊と、郡山高等女学校生徒の様子が記録され、1:58からは3名の女学生が登場し、牛石ヶ原を歩く姿が確認できます。その後大勢の女学生が引率者と共に、大蛇嵓不動返し岩に登る様子が記録されています。なお大台ヶ原下山と思われる映像では、女学生は<写真3>と同様の編み笠をかぶっています。郡山高等女学校大臺ヶ原登山は、内務省衛生局の撮影隊登山と合同で行われた模様です。


この度は、ともすれば見逃されてしまう一枚の写真から新たな発見につながりました。郡山高等女学校の大台ヶ原登山の写真がネット上に公開されていたことも幸運でした。そして偶然にもこの写真に関連する記録が、最近になって入手していた『卋界の名山 大臺ヶ原山』に掲載されていたことも驚きでした。これらの資料が、まるで運命の糸でつながっていたような印象を受けました。実利行者とその弟子たちが、最初に碑を建てる際にはどのように考えたのでしょうか。牛石の廻りの笹が枯れていたり丈が短かったりすれば地表に建てた可能性もあるでしょう。しかし笹の一斉開花枯死の周期を考慮しても、牛石の廻りはミヤコ笹に覆われている期間のほうが遙かに長いはずです。山を熟知する弟子たちが、わざわざ笹が枯死している短い期間に合わせて地表に建てたとは思えません。笹原の中に立つ「孔雀明王碑」は適度に足下が隠され違和感を感じさせません、岩塊の上こそがふさわしい場所ではないでしょうか。それにしても大正時代の写真を見ていると、牛石が現在よりも牛らしく見えるように思います。遠くから眺める牛石は笹原の波の上に程よく背中を出していて、本物の牛のように見えます。現在のように笹が短くなってしまっては、足下が見えすぎて牛石が可哀想な気がします。

(07/10 2020 改訂)


<写真5> 大臺原頂靑檀姫笹ヲ敷ケル牛ヶ原(實利行者修苦ノ遺跡アリ)(其ノ七)  昭和2年(1927)7月23日付スタンプ有り  写真提供:成瀬匡章氏

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「奈良県立図書情報館 ITサポーターズ」「奈良の今昔写真」「大台ヶ原」より転載。

この写真の左半分には杭に囲まれた孔雀明王碑と牛石、その右に立つ角塔婆が小さく写っています。岩塊に立つ孔雀明王碑の説明には不向きですが、右半分には大きな角塔婆とおぼしき柱とそれを支える人の姿、杭で何かが囲われている様子が写っています。そして、人々は何か作業をしているように見て取れます。写真下の説明(實利行者修苦ノ遺跡アリ)はどこを指しているのかはっきりしませんが、右側の杭に囲われた場所を指しているとすれば、果たしてどのような遺跡なのでしょうか。この場所は牛石からほぼ北の方角にあたると思われますが、思い浮かぶのは八大竜王堂ぐらいです。八大竜王堂は松浦武四郎が現在神武天皇像が立つ大盤石あたりに建てたとされていましたが、場所が違いますし実利行者の遺跡といえるのでしょうか。一つ考えられることは、この写真の日付、昭和2年(1927)の翌年8月に大盤石に神武天皇像が建てられています。その工事に伴い、八大竜王堂か何かを移設するための準備段階の様子かもしれませんが、何とも気になる写真です。


貴重な写真の転載を快諾していただきました中井陽一氏、成瀬匡章氏、便宜をお図りいただきました奈良県立図書情報館の宮川氏、ITサポーターズの河本氏には心より感謝いたします。

(11/07 2016 改訂)

改訂公開後、昭和18年に吉野熊野国立公園協会奈良県支部が発行した『大台ヶ原山と大杉谷』という書籍に、「八大龍王堂跡 明治初年実利行者が三ヶ年修業せしと云う。」と記載があることを知りました。調べてみると、牛石ヶ原を紹介した(p71)に「八大龍王堂跡 明治初年実利行者が三ヶ年修業せしと云ふ。」と二行にわたって記述がありますが、「八大龍王堂跡」の場所を示すような情報は得られませんでした。しかし、環境省所管の国立公園協会発行の書籍に記載されていることから、昭和18年以前、牛石ヶ原のどこかに「八大龍王堂跡」があったことは間違いないようです。昭和18年には既に大盤石に神武天皇像が建てられていたわけで、そこに「八大龍王堂跡」があったとは考え難いと思います。案外このあたりに関連があるのかもしれません。<写真5>については改めて検証したいと思います。












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