実利行者の足跡めぐり

天ヶ瀬 岩本家

奈良県上北山村天ヶ瀬  2010年6月4日
明治元年(1868)大峯に入った実利行者は、天ヶ瀬の岩本家でわらじを脱いだといわれています。この岩本家の御子孫で、上北山村西原に分家されている岩本速男氏は、著書『ふるさと天ヶ瀬』の中で次のように述べています。

(28~29頁より)
 実利行者さんは、明治元年頃から、笙の窟で千日籠行を満行され、更に深仙でも千日行をされたそうです。笙の窟での千日籠り修行の最後のお方ではないかと思われます。天ヶ瀬には、「笙の窟」で籠り満行の記念碑が木喰上人の碑と共に並んで建てられております。実利行者さんの碑は、高さ1メートル余りの自然石の正面に「胎蔵界大日如来」の梵字が刻られ、背面には「金峯山籠満行」明治四年吉祥日、實利(花押)と刻られ、実利さん自ら揮毫したもので、実利行者さんが残された数少ない自筆の碑であります。天ヶ瀬の人々が、平安時代からつづいてきた、笙の窟の、山籠り行者に対する支援は、明治のこの時代まで延々と確実に行われておりました。天ヶ瀬の男衆は、山籠り行者の支援をするだけでなく、自らも行者の修行をして修験道の信仰をつづけていたようです。私の祖々父で天保十年生まれの「弥市郎」爺さんは、実利行者の弟子であったと云われております。法名を「義長」とし、当時としてはめずらしい、山伏姿の写真が残されており、「実利行者」さんの位牌を家におまつりしておりました。(同42頁より)年代はわかりませんがたぶん江戸末か明治の頃だと思います。(中略)この頃は山伏姿の行者さんも天ヶ瀬から大勢で入山され、私の家は宿坊のような宿の役をしていたらしく、大量の布団や膳が戦後までありました。

『捨身行者 実利の修験道』では、天ヶ瀬の岩本家について、次のように述べています。

(35~36頁より)
 上北山の西原では、天ヶ瀬の岩本家(実利の信者の子孫)が二枚の孔雀明王供養の木札を保存している。この札は実利行者が孔雀明王経の供養をしたことを記念して、「慶応四年八月」(明治元年)「奥通笙窟内」・・・・・・「鷲峯笙窟」という銘文を記する。それによると、坂下を出ると、すぐ実利は大峯へ行き、笙の窟に千日行を果たしたとある。この木札と上記の易術帳、同天ヶ瀬の他の岩本家の不動明王像と実利行者の位牌もそこの信者によって守られているが、この事は、この村が笙の窟に山籠修行する行者や山伏の食物の補給所であったということで説明される。実際に天ヶ瀬と笙の窟は一本の山道でつながっている、その上、この村の岩本家で実利は「わらじを脱いだ」といわれている。



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実利行者四十一歳生像

上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2010年6月4日撮影
実利行者入定の1年前、41歳の肖像です。高さ約100cm、幅約30cm、『捨身行者 実利の修験道』(91頁)で実利遺物として紹介されている三つの肖像のうちの一つです。


邦元と署名のある実利行者座像
「実利行者四十一歳生像」と「邦元と署名のある実利行者座像」について、実利行者の論文を多数発表されました大江希望氏が調査をされ、その成果が『実利行者立像の讃 解読』に追記として公開されました。梵字の意味や題字は誰の手によるものなのか、興味深い内容です。





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実利行者の位牌

上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2010年6月4日撮影  厨子の高さ約34cm

位牌の裏
明治十七年四月廿一日死ス 林喜代八事
濃刕阿尓郡坂下村産人也 (阿尓=おもねるその)
工師 岩本芳蔵
岩本芳蔵は岩本家の親族の人で、名の知れた日浦(天ヶ瀬の隣の集落)の宮大工でした。方々から頼まれては出掛けて仕事をし、大阪の四天王寺の建設にも携わったといわれています。

 


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岩本弥市郎氏肖像

上北山村  岩本速男氏  所蔵  2010年6月4日撮影
天保十年生まれの岩本弥市郎氏は、法名を「義長」とし、実利行者の弟子であったと云われています。実利行者入定の翌年、明治18~20年、北海道の名づけ親として有名な、 松浦武四郎の三度に渡る大台ヶ原登山の案内役を始め、山道整備、小屋建設、道標設置等に中心的な役割を果たしました。大台の名古屋岳には岩本弥市郎と刻んだ「山頂碑」があります。松浦武四郎記念館発行の『松浦武四郎大台紀行集』の「乙酉紀行」「丙戌前記」「丁亥前記」には、実利行者の弟子として、真田八十八、井場亀市郎(亀市)と共に紹介され度々登場します。弥市郎氏の御子孫で本家の岩本泉治氏宅には、松浦武四郎より弥市郎氏に宛てた書簡、葉書等が残されています。

「山頂碑」のリンク先:「もぐらもち新聞」2005年8月16日 大台ヶ原(三津河落山等)

松浦武四郎との出会い    10/16 2015 追記
明治18年(1885)に始まる武四郎の大台ヶ原登山に先立つ5年前、明治13年の4月11日、武四郎は大峰奥駈けを目的とした旅に出ました。奥駈け初日5月7日の夜、泊まった山上ヶ岳の社務所で武四郎と弥市郎は出会いました。この出会いがきっかけとなり、大台ヶ原登山の手助けをすることになりました。この旅は『庚辰紀行』として残され、「松浦武四郎記念館」が所蔵しています。現在、サイト『松浦武四郎案内処』の佐藤貞夫氏によって、刊本『庚辰紀行』の発行に向けて解読が進められています。そしてその過程を追って、大峯奥駈け 明治13年『庚辰紀行』が公開されています。「大峰奥駆けで出逢った人々」には岩本弥市郎の記述があります。




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役ノ行者と前鬼(左)・後鬼(右)像

上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2010年6月4日撮影
背面の文字 「安政5戊午十一月 山上本堂護摩灰佛 役行者尊 願主 當山大演」「細工所 當村 願主 野木勘兵ヱ」「南都 細工人 米川武」 陶製 像高約35cm




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蔵王権現像  青銅製 像高約30cm
上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2010年6月4日撮影




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不詳の木像  木喰上人の可能性が指摘されている木像、像高約28cm
上北山村  岩本泉治氏  所蔵  2010年6月4日撮影



上北山村を訪れるようになって以来岩本速男氏には大変お世話になっています。この度は岩本泉治氏所蔵の実利行者肖像や位牌、大峯修験道に関わる仏像の撮影にご助力をいただきました。両氏にはこの場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。




天ヶ瀬の集落  2013年6月10日
天ヶ瀬は江戸時代末まで西野村の中心地として栄え、その起源は平安時代に盛んになった修験道の重要な霊地、「笙の窟」を支える修験者が天ヶ瀬の奥に定住したのが始まりのようです。大峯修験道と深く関わり平家の落人説もあり、南朝の残党や後の大坂夏の陣による西軍の残党も住み着いた形跡があるといわれています。
江戸時代には将軍家の御用材所となり、天ヶ瀬には杣役のしきたりがありました。笙の窟に関わることから広い地域の支配権を持っていたようで、笙の窟を含む大普賢岳から一ノ多輪までの峰筋を、天ヶ瀬を中心とした上北山村の人々が管理していたそうです。木材の産出は杣役が定められる以前より行われ、1500年代にはすでに始まっていたようです。杣役の組織は後に天ヶ瀬組として引き継がれ、庄屋制度と並んで広範な役割を果たしてきました。昭和31年には公益法人「財団法人天ヶ瀬組」が設立されました。
笙の窟は重要な霊地であったことから都との関わりも深く、山奥の集落としては文化的背景に恵まれていたようです。江戸時代の寺子屋に始まり、明治11年には天ヶ瀬に西野学校が開校しました。第二次世界大戦後は木材需要が高まり、地域に大きな繁栄をもたらしました。


昭和30年頃の天ヶ瀬の集落

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岩本速男 著『ふるさと天ヶ瀬』私家版 2005年発行(p279)より。岩本速男 画

天ヶ瀬の廃村は昭和52年(1977)といいますから、今から38年前のことでした。ところが現在も家の手入れをして、別荘として活用されている方がお見えになるそうです。ふるさとの天ヶ瀬に愛惜の思いを持つ人々の存在を、改めて認識いたしました。いずれ自然に飲み込まれ山林へと戻っていくのでしょうが、その時が来るまで、そっと静かに見守ってほしいと願わずにはいられませんでした。



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平成25年(2013)6月10日、岩本速男氏のご案内で初めて天ヶ瀬の集落に足を踏み入れました。感慨を胸に歩を進めると、思いのほか雑草も少なくて歩きやすく、人の手が入っているように感じるほどでした。しかし岩本氏によれば、鹿が殖えて餌となる植物はすべて食い尽くされ、その影響でこのような状態に保たれているそうです。大台ヶ原では鹿の害が問題となっていますが、このあたりも同様のようで何とも皮肉なことでした。



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旧岩本家
笙の窟に関わる宿坊をしていたとされる旧岩本家の母屋です。宿坊をしていたといわれるだけあって、東西に長い大きな建物です。一部は崩壊していますが全体としては往時の状態を保っています。実利行者は大峯に入り、この岩本家でわらじを脱いだといわれています。あたりは静寂に包まれていて鳥の鳴き声すらありません、まるで別世界にいるようでした。たたずんでいると当時の様子が様々に思い浮かび、タイムスリップをしたような気持ちになりました。


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向 山 (むかいやま)
岩本家の庭の端から南を眺めると、地元の人々が「向山」と呼ぶ山が眼前に広がって見えます。天ヶ瀬に降りる太尾根を「とうだ尾」と呼んでいたそうです。


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ここは岩本家から西に向かってしばらく歩いたところです。ここからは足下が悪くなり進みませんでしたが、この先を右に登ると村はずれに出ます。そこからは笙の窟に向かう参上道となり、天ヶ瀬谷を渡って500m程行ったところには女人禁制を示す結界門があったそうです。1000年以上に渉る修験の歴史を今に伝える古道です。

(8/13 2015)

 

二人の政治家

明治末から昭和の初めにかけて、天ヶ瀬、日浦あわせて18戸ほどの集落から、続けて二人の衆議院議員を輩出していることに注目しました。さらにその二人は天ヶ瀬の岩本武平という人物の子息と孫にあたります。

岩本武平

大台教会設立の功労者として、池田 晋『大臺ヶ原山と大臺行者』(岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』(1923)所収)に記録がありました。実利行者の大台ヶ原での修行にも関わりがあったようです。明治24年10月末、西山村での2日間に渡る大祭を終え、古川嵩と主だった信者は上北山村へ戻りました。その翌日、大台教会の教派を求めて上京する2日前、福山周平はじめ他6名が訪ね、大台教会建設について諮問しました。

池田晋(p195〜196)
 翁の信者、奥村藤十郎父子、奥村淺太郎、福山周平、中西友吉、山本丑之助、橋詰島彦の諸氏が、上北山村の富豪であり隨一の敬神家である岩本武平氏を訪ねて、大臺ヶ原山頂堂宇建立の議を諮つたのはその翌日であつたが、敬神家の武平氏は、大臺紹介よりも先づこれに賛した。そして人々を激勵して、その資金の支出を快諾した。人々は之に力を得た。

同(p208)
 在京中の費用二千五百餘圓、當時の二千五百圓の黄金は、貧しい者の夢想だも及ばぬ莫大のものであった。此の巨費は奥村岩本の兩氏が、さながら神から預けられた物品を、時期が來て再び神に返すやうに、快よく出したのであつた。そして兩氏は、今後に要する費用の支出をも引受け、翁の一行が、晴れやかな顔に、包みきれぬ喜びを湛えて上北山村の土を踏んだ時には、既に大臺敎會が一派の宗敎として獨立し、世に廣く布敎し得るやう、奈良縣知事から許可をまで受けてくれて居た。この時、明治廿四年十二月、秋既に去り、上北山の里には、霜白くおりて居た。

同(p279)
 岩本武平氏は天ヶ瀬の素封家なり、人爲り道心厚く、世の志ありて資財乏しきものを見れば、氏必ずこれを扶助して厭はず、往年實利師の西原にあるや、氏は爲めに法壇を牛石ヶ原に設け、以て其志を遂げしめたり、大臺敎會創立の後は、首として瑗護の衝に當り、敎勢の發展を助けしこと少からず、男平藏、孫武助の二氏能く父祖の志を繼紹し、篤道高義の譽れ四方に高し。

岩本平藏 (1869年11月3日 ー 1924年6月15日)

heizo.jpg『ふるさと天ヶ瀬』より
(以下『ふるさと天ヶ瀬』参考)
岩本武平の三男で、天ヶ瀬岩本金平の養子となる。漢籍を修め、奈良県議会議長などの要職を務めた後、明治45年5月、43才で第11回総選挙に出馬し衆議院議員として初当選しました。その後第12、14回の総選挙と合わせて3回の当選を果たしました。その他役職多数。

県議会議員時代の明治30年代、歩道のままになっていた東熊野街道の池原から伯母谷間を、幅3メートルの馬車道に改修するために尽力しました。7年間の工事を経て明治40年、池原から伯母谷までの十里の馬車道が完成しました。

jigo-sekihi.jpg『ふるさと天ヶ瀬』より
明治30年代後半、和歌山県北山村の音乗に次五(神護)一ノ滝という筏流しの難所があり、筏流しの人々に恐れられていました。奈良県の県議でありながら、北山郷材木同業組合の組合長を兼務していたことから、この難所の開削改修工事に着手しました。明治40年2月に改修を終え、神護には記念碑が建てられています。碑は高さ3メートル余りの自然石で、右に「明治四十年二月字音乗開鑿並次五一ノ滝ヲ改修ス」と謂れ書きがあり、上部に「音乗新水途開鑿記念碑」と大書きされ、筆頭に「北山郷材木業組合・組長・岩本平藏氏」と刻まれています。
(以上)

場所は「北山川観光筏下り」のスタート地点になっている、オトノリ園地の奥になります。北山村観光協会の『北山みっけ!』というサイトに画像付きで紹介されています。

こちらでは川岸の岩肌に文字が刻まれた画像を見ることができます。:南紀熊野ジオパーク ジゴ

なお、ここから13kmほどの上流には同様の難所「七色の滝」があり、明治5年改修工事の後、実利行者が招かれ祈祷を行いました。


昭和32年の週刊サンケイに、大正4年12月18日(第三十七議会)の記事が掲載され、岩本平藏議員の奮闘ぶりがうかがえます。『ふるさと天ヶ瀬』にはこの記事を引いて掲載されていますが、興味深いので孫引きして紹介します。

(p355〜357)
 総辞職をした山本内閣のあとに大隈重信が第二次大隈内閣を組織した。今度は政友会が野党になって、大正四年十二月十八日(第三十七議会)の本会議では紋付袴の原敬が登壇し、大浦内相の汚職事件(議員買収)は、内閣全体の責任である。また不起訴にしたのは怪しからん、乃木家を再興し養子に授爵したのは、乃木大将の遺言に反するものであるという意味を述べた。
 すると、大隈首相が山崎秘書官の肩に手をおいて、隻脚のびっこを引きながら登壇して、「・・・予はこの悲しむべき議会に望むに至れることを悲しむんである。一知半解の徒はいざ知らず、政友会の為すところは君主権を侵すものであるんである」と一喝した。
 この一言で野党の議席は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、気の早い武藤金吉は、和服姿の団子のようなからだをころがすようにして演壇にかけのぼり首相の左手をとらえて「君主権を侵すとは何ごとだ」と、ゆすぶった。一本足の首相は、あやうく仰向けに倒れようとしたところを、山崎秘書官に支えられた。武藤がさらに大隈をこづきまわしていると与党の津末良介が突進して、武藤に組ついた。
 こんどは政友会の岩本平藏が津末に打ってかかる。そこへ与党の富田幸次郎が首相を救い出そうと駆けあがった。強力無双の岩本がこれを蹴飛ばすと無残にも富田はもんどり打って壇下に転げ落ち気絶状態になった。ぞくぞくと与野党から駆けあがった人波に取りまかれた大隈首相は、前後左右にゆらりゆらりとゆれている。
 演壇の下には、紋付羽織の政友会の鳩山一郎が、柔道二段の腕で壇上へ突進しようとする与党議員を取っては投げ、取っては投げて武勇を発揮している。守衛長は守衛を総動員して、壇上であばれまわる与野党の面々をやっとのことで追いかえした。ホッとした大隈首相は守衛に護られながら演説の最後を結んだ。
 与党側では、最も目立って暴れた政友会の武藤金吉、湊豊助、鳩山一郎、岩本平藏、小林源蔵、広岡宇一朗の六名を懲罰に付した。
 だが、政友会の松田源治から提出した富田幸次郎、津末良介ら十数名を懲罰に付すべき動議は、与党側の多数決で否決された。

当時の国会議員として、犬養毅、三木武吉、浜口雄幸、小泉又次郎が列挙されています。

明治32年、大台ヶ原の詳細を世の中に紹介するよう、マスコミ等に働きかけています。池田 晋『大臺ヶ原山と大臺行者』(岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』(1923)所収)より。

(p272〜273)
 明治三十二年七月、奈良縣書記官後藤松吉郎氏は代議士岩本平藏氏の紹介によって登山、其後、岩本代議士奥村淺太郎氏等は奈良市實業靑年團長(現山嶽會々長)木本源吉、關信太郎諸氏と謀って、開山に資して翁の功績と、大臺ヶ原山に關する詳細を世に發表した。(中略)
 これより先、大臺ヶ原開山の報岩本代議士等から報告された、京阪各地の新聞社は逸早く登山隊を組織して詳さに開山後の大臺を探檢する事を計畫した。この一隊は、新聞記者を主として、圍體の中には數名の弟子を伴なうて畵家川北雅邦氏なども交つて居た。また登山の途次、いつ出るやもはかられない怪魔に備へる爲、當時有名の劍客數名加はり、大刀を腰にして居た、圍體總員二百餘名、その嚴めしい裝ほひは途上村里の人々を驚かせたのであつた。

ある年平蔵議員は国会休会中に天ヶ瀬に戻り、百姓姿で肥担桶をかつぎ畑に下肥を撒いていました。そこへ東京からやってきた大蔵省の役人が、本人とは思わず、平蔵議員の家は何処かと訪ねました。「私が平蔵じゃ」といわれ、役人が仰天して驚いたという逸話が『ふるさと天ヶ瀬』に載っています。


岩本武助 (1882年12月3日 ー 1936年9月6日)

busuke.jpg『ふるさと天ヶ瀬』より
(以下『ふるさと天ヶ瀬』参考)
日浦の岩本善太郎の長男として生まれる。立命館大学法律科本科卒、同大学高等研究科で経済学を修む、陸軍二等主計となる。昭和3年2月、46才で第16回総選挙に出馬し衆議院議員として初当選し、その後第17、18、19回の総選挙まで再選され合わせて4回の当選を果たしました。この間、斎藤内閣の司法参与官を務めました。その他役職多数。
(以上)

大正4年7月の吉野群峰踏破団に発起人として参加しています。このとき33才、岸田英夫(日出男)、伊藤忠兵衛(伊藤忠財閥の2代目)等と行動しています。大正6年、この時の記録が木本光三郎 編『吉野群峰』として出版されました。

村串仁三郎 著『吉野熊野国立公園成立史 : 自然保護と利用開発の確執を中心に』経済志林71巻4号(2004)法政大学経済学部学会出版 より

(p165)
 昭和2年国立公園制定運動が再構築され新たな運動が展開されたが、奈良県吉野郡でも、昭和2年11月に吉野郡町村会長を中心に『吉野国立公園期成会』が結成された。会長は、大和山岳会副会長で林業家の岩本武肋、幹事に吉野山岳会副会長の岸田日出男らが就任して、吉野群山の国立公園指定の運動がすすめられた。

さまざまな議論の末、紆余曲折を経て昭和11年2月1日「吉野熊野国立公園」が指定されました。

01/16 2021

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