実利行者の足跡めぐり

下北山 浦向 分骨碑

奈良県吉野郡下北山村大字浦向  2009年4月26日
浦向の集落のはずれより、奥地川に沿って林道(国道425号)を2Km 程入った所です。ここは実利行者の修行地の一つであり、行者入定の翌年、明治18年(1885)大和、紀州、大阪の講中により那智から分骨して建立されました。碑の裏手には行者が修行したと伝えられる行者の滝(奥地の滝)があります。2006年10月の下旬、足跡めぐりで一番最初に訪れたのがこの場所でした。私には遠い存在の実利行者ですが、大切に守られている分骨碑を目の当たりにして、嬉しい想いと同時に浦向区及び関係者の方々に対し感謝の念を覚えました。辺りにはたくさんのシャクナゲがあり、何時かこの花が満開の時に訪れようと心に決めていました。


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『捨身行者 実利の修験道』によれば、大峯奥駈け道は深仙の宿と、大日岳を下った太古の辻から先は厳しく困難な道でした。地蔵岳、行仙岳、笠捨山を経て玉置山に至る道はしばしば壊れて通れないことが多く、実利行者の時代には前鬼から笠捨山へ越えることが困難でした。しかし道を開いても怒田宿が壊れていたので、深仙の宿から玉置山までは泊まる小屋がありませんでした。怒田宿へ行く道は一つは下北山の松葉垣内の北側から、もう一つは浦向から出ていました。明治15年(1882)4月から翌16年9月の間に行われた怒田宿の再建、大峯奥駈け道の復旧には主に下北山村の信者が参加しました。特に大きな役割を果たしたのは佐田の福山周平氏、浦向の和田喜平氏と新子伊平次氏、松葉垣内の北栄蔵氏でした。この明治16年の大峯山道修繕によって修験道の根本道場であるこの山の入峯は可能になりました。明治15年7月に怒田宿の再建を果たした実利行者は、この年の冬から再建成った怒田宿で山籠もりに入りました。翌明治16年9月には大峯山道も複興し、その完成の頃行者はもう一度前鬼を訪れています。手記には「明治16年旧9月5日、怒田宿を出、二晩前鬼山泊り、同5日の夜(梵字)7日8日弥仙逗留、大シケ也、同8日洞川坂本権六に泊り、9日は川度ヨキヤ泊り、10日吉野金佐11、12、13日逗留、又峯返り修行して、怒田宿迄17日帰山也」と記されています。そして最後の那智冬籠もりのために明治16年10月1日、怒田宿を出た行者はこの地より那智へ向かいました。


 
大峯奥駈道改修祈願碑
下北山村歴史民俗資料館には、大峯奥駈道の改修を祈願したとされる「大峯奥駈道改修祈願碑」が収蔵されています。碑は家屋形の厨子に納められ、碑の底面には「明治十六年七月七日大峯奥通り道路再開ニ付怒田宿ニ而書之」と記されています。福山家に保存されていた「大峯山道修繕日記帳」によれば、奥駈道改修工事は9月下旬迄行われており、明治十六年七月七日は、奥駈け道が一先ず通行可能になった日を指していると思われます。資料をなくし正確なサイズをお伝えできませんが、碑の高さは概ね20cm程度です。



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大峯奥駈道改修祈願碑由来書(部分)


福山周平の「由来記」  大江希望   5/9 2016 追記
大峯奥駈け道の復旧と怒田宿の再建に尽力した福山周平の「由来記」を足掛かりに、実利行者に係わる広範な研究がまとめられています。明治初期の宗教政策、政治情勢については注目すべきで、今まで釈然としなかった問題が理解できました。
  サイト「き坊の棲みか」  ー 福山周平の「由来記」ー





昭和40年代後半、田辺市出身の前田勇一氏がさびれた南奥駈の道をよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そうとの趣旨で奥駈葉衣会を創設されました。そして持経宿の山小屋を建設した後に意志半ばで亡くなられたそうです。その後、昭和59年(1984)奥駈葉衣会に参画されていた玉岡憲明氏をリーダーとする新宮山彦ぐるーぷがその遺志を継ぎ、太古ノ辻から熊野本宮までの間の閉ざされた24キロの道を、全くのボランティアで三年間かけて切り拓かれたことを知りました。これを維持管理するだけでも大変なご苦労ですが、それにもとどまらず行仙宿、平治宿の山小屋の建設まで成し遂げられました。そしてその活動は現在も絶え間なく続けられています。私は実利行者の行跡を探るうちに新宮山彦ぐるーぷの存在を知りましたが、その活動には感嘆するばかりで言葉もありません。



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偶然にもこの日は行者祭でした、開始までの間に七色の滝へ出かけたのですが思いもよらず時間を取られてしまい、戻ってみるとすでに祭りは終わっていました。しかし天候にも恵まれ、シャクナゲの花が咲く行者祭の会場を見ることができて心に残る再訪でした。



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分骨碑  明治18年(1885)8月建立 石碑の寸法(台を含まず)高さ約60cm、幅約27cm。



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『捨身行者 実利の修験道』(p270)資料篇より














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