実利行者の足跡めぐり

笙の窟

奈良県吉野郡上北山村大字西原  2009年10月31日
笙の窟は大峯修験道の霊地七十五靡(なびき)のうち熊野本宮大社から数えて六十二番目の靡です。役行者を始め名だたる行者が修行した霊地として特に有名です。明治元年(1868)大峯に入った実利行者はこの笙の窟で修行を開始し千日籠行を満行しました。西原の天ヶ瀬には実利行者が満行を記念して建立した「明治四辛未十月吉祥日 金峯山籠満行 實利(花押)」と刻まれた石碑があります。


syonoiwaya04.jpg

笙の窟 上部



syonoiwaya01.jpg




syonoiwaya02.jpg


笙の窟と天ヶ瀬については、岩本速男 著 『ふるさと天ヶ瀬』 私家版 平成17年発行 が詳しいので引用させていただきます。(P6~8)

 天ヶ瀬は大峯修験道の霊地「笙ノ窟」と共に平安時代に発祥したと云い伝えられ、これは、まぎれもなく事実だと思います。修験道の開祖「役ノ行者」(神変大菩薩)さまのことについては、飛鳥時代(699)伊豆島に流されたことが『続日本紀』に記述があり、役行者さまのことについては、諸説いろいろあるようですが、大峯修験道の開祖で、「笙ノ窟」や「鷲ノ窟」で修行されたと天ヶ瀬でも言い伝えられております。(中略)
 「笙ノ窟」が世の中によく知られるようになったのは、ここに籠り修行された「道賢」(日蔵)の『道賢上人冥途記』(941)でありますが、その後において、行尊、行慶、長厳、覚忠、覚讃、覚宗、などの高僧となられた方々がこの笙の窟で修行され、ますます有名なところになったようです。これと並行して霊地「笙ノ窟」の管理や支援基地として山伏が定住し、天ヶ瀬奥に集落が発生しました。これは、山上ヶ岳や小笹は天川村の洞川、弥山は同村坪ノ内、釈迦ヶ岳や深山は下北山の前鬼が管理していたのと同じように、笙ノ窟を含む、大普賢岳から一ノ多輪までの峯筋は天ヶ瀬を中心とした上北山の人々が管理しておりました。年代としては、平安時代後期から明治時代にわたる一千年に及ぶ年月でありました。笙ノ窟の籠修行はだれでも入山し修行するようなことは出来ず、許可された特別な者だけが山に籠り、「千日籠」と云われる厳しい修行は平安時代から続いておりました。千日とは三年以上の長期でしたから、只一人でこの修行を完遂することはおそらく不可能なことで、支援基地から多種多様な支援や助力を受けていたことは当然なことだと思います。
 「笙ノ窟」の山麗には「恵山」「坂本」「ワサビ」「新田」、一番奥地には「笙ノ床」と呼ばれる場所があり、いずれも小規模ながら農耕可能な地形で、それぞれ住居跡があります。笙ノ窟の眼下に位置したこれ等の住居跡のなかで特に注目される「笙ノ床」は、笙ノ窟から直線距離一キロメートルぐらいのところにあり、面積二ヘクタールぐらいの緩斜面のところどころに、石垣や、住居跡が残され、地形的には東向きでありますが、南側のひらけた日当たりの良いところで、見上げるとすぐそこに笙ノ窟があり、大声を出すと聞こえるぐらいの距離であります。笙ノ窟は、冬籠りのできる別名「南室門」と呼ばれるところでしたが、海抜1450メートルもあり大峰山脈の山頂に近く、厳寒期には深い積雪と零下十度にも下がる厳しい自然条件ですから、衣食品の補給、とか病気の対応など、行者支援基地として重要な役割を果たす、文字通り「笙ノ床」でありました。




syonoiwaya03.jpg


 

松浦武四郎と笙の窟

松浦武四郎は、明治13年5月から明治20年5月までの間に、笙の窟を三度訪れています。
最初は明治13年5月8日、大峯奥駈の途中に立ち寄りましたが、先を急いで宿泊地の弥山に向かいました。前日の5月7日、山上ヶ岳の大峯山寺戸開式に参加するため、山上堂の社務所に泊まりました。この時初めて岩本弥市郎と出会います。

松浦武四郎記念館発行「庚辰紀行」(p39〜46)
 夕方竹林院に帰りたれば、龍賢、土筆を取て是に款冬の花等をまじへ、味噌あへとなして護摩酢を出し呉たり。夜に入る比また追々客来り、取込が故に我は山上堂の前なる社務所え夜具を持たせ行止宿す。此処竹林宿坊と纔一丁半斗違ふ斗なるが、其寒き事また甚し。炉に大なる薪を多くくべて、夜ふくるまで語り合ひけるに、一人此社務所守は駿州静岡辺の元僧なりしが、明治御一新の際服飾して妹山岩根と改名して龍門村に住し、夏中此処え来ると。一人は十三才斗なる男児と十五才斗なる男児を連れて居けるが、是は北山郷西野村の者にて岩本弥一郎と云、当山無二の信者の由。兼ねて善導も極々懇意なりと。我が奥通りせんことを聞きて、大に驚き至て叮嚀にもてなし呉たり。夜一時過と思ふ比、我を起こすが故、何故ぞと聞に、粥が出来し故食と云。依て起て食す。是御戸開きの時の例也と。宿坊も皆今朝は茶粥のよし也。(中略)
 未明起て手水せんとするに、手水鉢の水氷で破れず。依ていたし方なく本堂の水桶の台をゆつらし、此水を破りて手水、顔すゝぐ。此処また氷雪、軒につかゆる斗積たり。是より弥一郎を連て、東の方に出れば、谷間の桧、杉、白灰をふりかけし如く白し。是何故ぞと聞しかば、此地秋九月より本月中比までは靄皆氷て如此と云り。然るに今日は一面によく晴たりけるが、二十八日〈三日〉の神月東山最早白まんと欲する比昇りけるぞ珍しとも何とも云がたし。高見、龍門、大台の山は連山波濤の如く、遙に丑寅に富岳といへるを拝しぬ。従当所富岳を拝するは一年中五六度に過ずと云り。今日我此処にて富岳を拝し給ふ事、御供運なりと。弥一郎甚悦び呉たり。是より花畑の方に回れば普賢、弥山、楊枝、釈迦、玉置より熊野なる無終山、引牛山、高野山、阿波の山に淡路島、摩耶、二上、金剛山までを見たり。
 帰りしが、未だ宿坊より皆来らざりしかば、善導を呼び、出立を談ずるに、今日御戸開を拝し其より出立せんと云。弥一郎曰く、此高山にて三百六十日、三百日靄雨降、四方の眺望なく、よく晴たりとも昨日の如き寒天にして風有ば、従是奥中に行がたし。幸今日の快晴にして風なく、如此好天気年中に十日とは有まじと云。機を失ひ給ひなば、此地の日和また雨とも変ぜまじとも申がたし。是蔵王権現の賜もの也。必ず/\今日御出立有れ。もし善導殿、貴僧今日御出立出来まじくば、私案内せんとすゝめ呉るに、善導も致し方なく出立と定め、宿坊に到れば、喜右衞門始め三人の強力共荷物作して出立の用意とゝのひたり。是善導全く悪心にはあらず、我が御戸開を拝さしめんが為也。(中略)
 今日は〈五月八日、旧暦三月二十九日〉。きのふにかへて、善導は山宿に柿の衣高くかゝげ法螺の役。我も山宿の刺衣。安政三丙辰のとしより三歳の間身を放たざりし鍋を背負、桧笠、桧杖に半連を手に懸け、喜右衞門受螺の役として、本堂の前に般若経三巻を唱し畢て、七時と思ふ頃に本堂の前より二丁斗行〈是花畑の岳の南東に当る〉。(中略)
 またこゝに行者篭の馬場と云有しが是は何の処としられず。此辺、椴、桧、杉多し。また石楠花の馬場と云有。従是左りの方に、細道を入ること少々。道形ち有。少々下り多し。凡十二三丁と思ふに到るや、普賢岳の東に出る。是北山の西野村の上なるべし。是にて考ふれば小篠の山脈、大台ヶ原のすじに成る也。爰に名高き笙の窟に到る。是国見岳の山腹有れど大普賢の山腹に当る也。往古より大徳、高僧の篭り給ひしは皆此窟にてぞ有ける。日蔵上人もこゝにぞ篭りて延喜の帝に逢奉りしと云処なり。(短歌七首略)
 この窟を笙の窟と云は、窟東に向ひける故、東風吹時は風吹入るに自然笙の音するが故此名有。窟中種々の名所有れども、今日は弥山迄と道を急げば直に帰る。此下に朝日窟、鷲窟等有と。然し是えも立よらず。



二回目は明治18年5月15日、初めて大台ヶ原に登る二日前、笙の窟で一泊しています。

松浦武四郎記念館発行 <松浦武四郎大台紀行集>「乙酉紀行」(p28〜30) 
 〇五月十五日〈旧四月一日〉。微雨、粛々。蒙靄、谷に満。しばしにて少々風出来る故表に出て見るや、雨雲東より峰中国見岳の方にさし込けるが故に、今日も雨なりと。隣人も四五輩来りて評しけるが、しばし有て真田八十八なる者、一二人の村人召連れて来り、一応挨拶の末、今度我が大台行を大にめで、都合により自らも登山せんと語らはれけるに、此者、実利行者とて生国美濃国にして元来御岳行者なりしに、慶応三年峯中笙の窟に籠もりて行を始め一千日籠居し、明治三年九月大台山牛石に移りて自ら草庵結て修行、同七年冬まで一千日修業有。其後城州八幡山に至り、其より処々千日の修行畢て、去る年紀州那智の滝より捨身したまゐし荒行の行者の弟子にて至て信者のよし。依て我一面をして此人可頼人と決心してけるが、先其座はそれにて相分れたり。
 外三人程同道の人何れ実利の門人のよしなり。十一時雨晴。十二時過より西風も吹来る。急に握りめし拵て出立。畑道十丁斗上り、人家十余軒有なり。追々上り坂に到る。路嶮なり。是より五十丁云。夕方になるや掌を立たる如き処なり。しばしにて、笙の窟に到る。此窟、朝日の窟また鷲の窟等云に別号有。其上は掌を立たる一枚岩壁数十丈高し。是を蔵王権現と祭る。笙の名有は、東風吹時は山木にわたる風声恰も簫の如く音するより号と。朝日の名有は朝日さし込むが故なりと。鷲の名有は其断崖のさし出たる様は鷲の嘴の如しと云より号しと。役の行者の像の上に鷲の嘴の如き岩有は此窟の様を画きしものなりと。
 其中二十畳も敷るゝ処なり。其中水涌出る処有。修行の者、九月九日山留の節より山入して、米塩菜類用意して、来年四月八日迄籠るなり。是を冬籠りの行と云ふ。冬に至れば窟の外は白雪積りて往来をなし難し。此窟やに薪、米、菜を送るは麓なる伯母谷村より山道有て運送す。
 尺素往来曰、大峯抖藪葛城修行、那智千日籠、笙窟冬籠等者、山伏之先達、捨身苦業之専一也。(中略)
 握り飯あたゝめ、湯をわかし、是より心経を百巻読誦せましく思ひて、三十少々余とも思ふ頃、昼の草臥にて如何にも眠気催しければ、そのまゝに榾柾の残りを枕とせしや一睡にして、其辺りに聞慣ざる鳥の鳴に、弥一、善導起出て湯を煮、余は心経にかゝり二十二三巻もと思ふ頃に□、
 〇十六日、東方は白けたる哉に見ゆれども、また微雨じめ/\ふりしきる故、山々も雲に封ぜられて分らず有れば、続て百巻にみてる頃、早十時前と思ふが故に支度して窟を出立。二時頃に天ヶ瀬え帰る。

※参照:ブログ〈旅する武四郎〉「乙酉紀行」第二冊 〇一 〜 〇六



三回目は大台ヶ原三登の年、明治20年5月7日、大台ヶ原三登を前にして、山上ヶ岳の大峯山寺戸開式にあわせ、竹林院宿坊に泊まりました。翌5月8日、笙の窟を経て天ヶ瀬に向かいます。

松浦武四郎記念館発行 <松浦武四郎大台紀行集>「丁亥前記」(p118〜119)
 〇七日。暁に到て少し小止みと成たり。雇 益谷弥吉 出。二十五丁にして女もどし川有。橋有。此川に添て右に至らば稲村岳に到ると云。是より九折を上り、鷹の鳥屋、一本松、此処大なる倉の上にして、小堂の一ツもおしき処なりと思はる。前に笹小屋有。休、また〈二十丁〉にして笹小屋有。また九折を上る。〈二十丁〉にして洞辻茶屋。此処長三十間斗、幅五間斗の小屋にして中に大薪を五六本もくべて火をもしたり。しばし衣服を乾して話ス。人数三十人斗茶を煮、煮染物等うれり。出て西の行場をすませて、竹林院宿坊にとまる。
 北山連中未だ来らざれども、最早来る事はたしかなりと云風聞有。最早四時前とも思ふ頃、真田八十八、大西喜兵衛、射場亀一来る。当年は弥一は不来しと。夕方に成て、雨止む。去る辰年より大に暖気に思はる。夜中寝られず。近年になき登山人のよし話せり。豊吉、長藏来り居て大に世話を致し呉たり。紺屋当所の泊り千五六百人と云へり。
 〇八日。快霽。未開に亀、八十、喜兵三人を連れて出立。到 小笹 て大谷清次、長次の二人の来るに逢ふ。我等四人は先に下らんと経函石の方に指し来る。清次、長次は山上様に参詣し我等に追付来れと云て小普賢の下通り、大普賢の方に回りて下る。此嶮実に驚くべき処なり。今此処に五六十人手間を懸けて旧道を作り置て宜しけれども、左無時は今二三年も捨置ば、橋懸り等崩れて通りがたし。是吉野山の坊に人無事しらる。従経函石五十余丁にして、鷲の窟に来る。此処上の岩、鷲の形に見え役行者の御影によく似たり。
 併て笙の窟。是は風吹時は此窟に風の当りて笛の音に聞ゆる故に号るなり。昔し日蔵上人の籠玉ひしも此窟なり。水有。爰に火を焼て昼飯す。長治、清次も来たり、また播州の道者十余名を連来る。今日暖和にしてければ、余は爰にて一睡したり、是迄の高僧大徳は皆此岩屋にて籠もり玉ひしと。実利行者も爰にて千日籠もり玉ひしとかや。修行の者は九月九日山止りの節より米塩を用意して、来年の四月八日迄籠るを冬籠りの行者と云。尺素往来曰、大峯抖藪葛城修行、那智千日籠、笙窟冬籠等者、山伏之先達、捨身苦業之専一也。(中略)
 また或人、朝日の窟と云も、此窟の東に向ひ旭のさし込より一窟三ツの名ありといへども、鷲と笙とは一ツといへば一ツなれども是も別物。旭は是より三四丁左りの方に下りて一ツの窟と云なり。此辺りは少々道形ち有。播州、伯州辺の道者は必ず前鬼より此処え来るなり。また御戸開より此処に来り北山に下り前鬼へ行、釈迦に上りて、天の川に下るも有るなり。
 扨一睡して三四丁下り、朝日窟道の上に有るなり。此辺り惣て山の横道なり。西川谷を眼下に見〈是天ヶ瀬谷なり〉十余丁にして木立原に至。女不行と云に到る。是より山の岸まゝを凡二十余丁にして舟のたをと云。此辺大木有り。皆大木なり。栗多し。是より下る。十余丁にして川有。是を越て行や。右の下に銅山見ゆ。五六丁にして亀市宅に着。清次、八十八、喜兵衛、長治、皆家に帰る。余足を洗ふて弥市、弥兵衛の二軒に到る。帰て粥を喰て寝る。此家当村第一の奥にして屋敷も一番高く、至て旧家のよし。古き槍一筋有り、其先祖を問ふに井場兵庫と云て南朝侍のよしなり。

※参照:ブログ〈旅する武四郎〉「丁亥前記」第二冊 〇八 〜 一四



松浦武四郎や、実利行者と関わりのあった村人が何名も登場し、往時が偲ばれます。

5/28 2022




wasinoiwaya01.jpg

鷲の窟

鷲の窟は笙の窟から西側へ50m程の地点にあります。窟の上部の岸壁が突き出ていて、この部分が鷲の嘴のように見えることから鷲の窟と呼ばれるようになったそうです。




wasinoiwaya02.jpg




wasinoiwaya03.jpg

鷲の窟  役行者と前鬼、後鬼像



syonoiwaya05.jpg















Real_col_Mail.png