実利行者の足跡めぐり

大台ヶ原

大台ヶ原  奈良県吉野郡上北山村  2006年10月
明治7年(1874)大峯の修行の後、実利行者は大台ヶ原の牛石ヶ原で修行をしていました。シオカラ谷源流の元木谷にはかつて実利行者の庵があったといわれ、牛石の南東(南)の傍には実利行者が建てた孔雀明王の石碑があります。当時の修験道を取り巻く環境は厳しいものでしたが、苦難をものともせず修業を続けました。やがて実利行者を慕う多くの信者が牛石ヶ原に登るようになり、奈良県官はその影響力を懸念し実利行者を追放しました。元木谷にあったとされる行者の庵は官により焼き棄てられ、その焼け跡は後に何人かの登山者に目撃、記録されています。しかし明確な場所の記録がなくその場所は不明でした。ところが平成27年(2015)5月になり、「大台ケ原・大峰の自然を守る会」の田村義彦氏が新資料を発掘され、調査の結果元木谷の源頭左岸と確定されました。牛石の伝説は私の知る限り二説あり、一つは役行者が牛鬼を押さえ込んだ所とされ、そのふせ残りを理源大師(聖宝)が封じ込めたと言われています。もう一方は最澄上人が魔性を降伏させ、牛石へ伏せ籠めたとされています。牛石には触れると祟りがあるという言い伝えがあり、触れたりすれば雲や霧が出て視界を失い、ひどいときには猛烈な雷雨になると言われ、山に入る人々に恐れられてきました。



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牛石ヶ原

正面は正木峠方面  2006年10月 撮影



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牛石と孔雀明王碑

2006年10月 撮影(南西方向)



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御手洗池

2006年10月 撮影


御手洗池の石標

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八大竜王碑(八大龍王影向池) 実利行者碑(実利行者修行地) 2006年10月 撮影

松浦武四郎、真田八十八連名の八大竜王碑と実利行者碑(双方一辺約14cm、高さ60cm程)が建てられています。真田八十八は西野村総代名主で実利行者の弟子であった人物です。明治19年(1886)松浦武四郎は二度目の大台ヶ原踏査の前に大阪府知事宛に願書を出し、大台ヶ原山中の飲み水が得られる場所に小堂三ヶ所、地名と神仏の名号を記した石標を十余ヶ所ほど自費で建設したいと願い出ています。その結果、元木谷、ナゴヤ谷、牛石ヶ原、に小堂が建てられました。高野谷(開拓)の小堂は武四郎が建てたとされてきましたが、これは誤りであることが解りました。後段「大和吉野より(p8)〜(p9)」をご覧ください。このとき山道開削、小堂建設、道標設置に協力したのは、武四郎の三度にわたる大台ヶ原踏査に関わった実利行者の弟子、岩本弥市郎、真田八十八、井場亀市郎(亀市)を中心とした人々です。
松浦武四郎に造詣の深い佐藤貞夫氏のサイト『松浦武四郎案内処』には、一連の山頂碑や道標を調査した『石標探し』という記録が掲載されています。<2005.08.16の石標探し>では、「名古屋岳・岩本弥市郎」を始めとする山頂碑や道標が紹介されています。また、日出ヶ岳には「日出ヶ岳・井場亀市郎」と刻んだ山頂碑が建っています。同サイトには、武四郎と大台ヶ原にまつわる「大台山頂眺望図をめぐって」・「武四郎筆 大台山頂眺望図を読む」も掲載されています。武四郎が愛した西大台のナゴヤ谷には、遺言によって建てられた松浦武四郎分骨碑があります。

(改訂 2022  3/28)



大台ヶ原に於ける実利行者の記録

実利行者が大台ヶ原で修行していたことは、A・マリ ブッシイ著 『捨身行者 実利の修験道』 角川書店 1977年発行で初めて知りました。その後ネット上ではサイト「大台ケ原・大峰の自然を守る会 自然保護ニュース」に、田村義彦氏による『大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる』というページがあり、その中に実利行者に関する記録があることを知りました。また、松浦武四郎記念館より2003年に発行された 松浦武四郎 著 松浦孫太 解読 佐藤貞夫 編集『松浦武四郎大台紀行集』に於いても実利行者に関する記録があることを知りました。そして「き坊の棲みか」の大江希望氏のご尽力により、実利行者に関連する一連の論考が「き坊のノート」に公開され、様々な資料をネット上で見ることができるようになりました。そこで、実利行者と大台ヶ原について現在までに解ったことを整理し、年代順にまとめることにいたしました。

(2012年8月11日)

1.明治18年(1885)5月の記録

■『松浦武四郎大台紀行集 〜乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記〜』 松浦武四郎記念館 2003 ■

実利行者入定の翌年、明治18年(1885)蝦夷地を探検し北海道の名づけ親として有名な松浦武四郎は大台ケ原へ登り踏査を行いました。踏査は晩年の68歳より3回(明治18、19、20年のそれぞれ5月)に及び、案内には大台ヶ原に詳しい実利行者の弟子であった人たちが主にあたりました。その時の紀行集『松浦武四郎大台紀行集』の「乙酉紀行」には、明治18年(1885)5月20日、初めて牛石ヶ原を訪れたときの様子が記録されています。このときの一行は松浦武四郎と同行の大阪府国分寺村(大阪市北区)の国分寺住職小西善導、案内人の岩本弥市郎(弥一)、井場亀市郎(亀市)、竹本忠兵衛の5名でした。以下に引用します。(p38~39)

 此処もまさき兀(はげ)同様の処にして、また一等見はらしよろし。粉本沖、尾鷲沖より新宮川まで見ゆ。山白竹のわづか三五寸のもの青氈を敷つめたる如き処なり。ここに小家斗の岩二ヶ所、其間一丁を隔てて有り。其西なるを、牛石と云。東の方は何といへるか名しられず、こゝにまた二十畳斗敷る小池の深きもの有。水清冷、巴が淵にもますかと思ふ。其より二丁を隔てゝ西の角力場、東の角力場とて二ツの低き地有。是も古しえは池にても有りしかと思はる。また水松の下枝長く生たるもの、五六株有て頗る風趣有るなり。此牛石の南にて濃州の産なる実利行者といへる人、明治三年八月登山して爰に庵して同七年四月迄修行、一度も村方に下らずして行すまさせられしなり。其後城州の男山に籠り、後紀州熊野那智の滝にて捨身有し行者なり。此奥山にて我等五人にて一宿さへ明し兼るに一千日の修行、実に世に目出度行者にてぞおはせしなり。今其跡に庵を毀ちし木材、家財等も其まゝ朽腐れて有しぞ忝く(かたじけなく)覚ける。其傍に行者自ら掘しと云井戸有て水よく湧出たり。南の方を望むに沖行船一目に見え、こゝぞ普陀落世界かと思はる。また是より大蛇ぐらの方に下らんとせしに、小池の水気なくして逆巻様にみえしが、亀市のいへらく此池度々如此事有。是竜神の御喜なりと行者はいひ玉ひしと。(以上)

「二十畳斗敷る小池の深きもの有」は現在の御手洗池と思われます。牛石の南には実利行者の庵跡があり、その傍には行者が自ら掘った井戸が存在し、明治3年8月から同7年4月迄修行したとされています。庵の傍に井戸が存在することを示しているのはこの記録のみです。実利行者の庵跡については平成27年(2015)5月、田村義彦氏が元木谷の源頭左岸と確定され、私も異論はありません。「牛石の南」については随分悩みましたが、私には判断ができません。「一度も村方に下らずして行すまさせられしなり」、「実に世に目出度行者にてぞおはせしなり」、「今其跡に庵を毀ちし木材、家財等も其まゝ朽腐れて有しぞ忝く(かたじけなく)覚ける」からは、実利行者に対する武四郎の想いが伝わります。武四郎最後の大台ヶ原踏査となった明治20年(1887)5月12日、牛石ヶ原に十代を含む参詣者60名ほどの人々が集まり、採燈護摩の後餅投げが行われています。


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護摩修行の図  松浦武四郎の筆によるスケッチ
『松浦武四郎大台紀行集』 松浦武四郎記念館 2003年発行 巻頭資料より



『松浦武四郎案内処』
2024年3月、佐藤貞夫氏のwebサイト『松浦武四郎案内処』が閉鎖されました。松浦武四郎に関わる膨大な論考と、ライフワークにされていた稿本の解読は長期に渡り、閉鎖が惜しまれます。長い間お世話になりましたが、管理者で著者の佐藤氏より、掲載記事の転載をお許しいただきました。松浦武四郎大台三登の記録の中から、大台ヶ原と実利行者に係わる記録を紹介させていただきます。

◎『大台ヶ原の石標調査』(2010)
2005年の石標調査につづく続編となるもので、新たに画像や地図などが追加されています。

◎『実利行者に関する言及』(2016)
一般には目にすることができない松浦武四郎の自筆稿本から、実利行者に係わる言及部分が紹介されています。武四郎は実利行者についてどのように受け止めていたのか、関心がもたれる内容です。

◎『大台山頂眺望図』をめぐって(2017)
『大台山頂眺望図』の説明や、松浦武四郎大台三登の目標などについて解説されています。

◎『大台ヶ原三登についてのまとめ』(2018)
大台ヶ原三登のねらいと意義について、6項目を挙げてまとめられています。





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牛石ヶ原周遊路牛石分岐点    2012年6月6日 撮影(北東方向)



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御手洗池    2012年6月6日 撮影





2.明治18年(1885)9月の記録

大和山林會報版『大臺原紀行』(サイト『き坊の棲みか』)■

松浦武四郎の最初の大台ケ原踏査から約4ヶ月後、明治18年(1885)9月5日~22日、大阪府官吏3名が官命によって大台ヶ原踏査を行い、その復命書が『大臺原紀行』です。このときの一行は役夫5名が雇われ、その総勢は8名。役夫のうち岩本彌一郎(彌一)のみ名前が記載されており、松浦武四郎のたどった道や開墾跡などについて説明や案内をしています。『大臺原紀行』9月16日の項には実利行者や牛石、孔雀明王碑について記録がありますので以下に引用します。

 其牛石に至るや天晴れて風なく、正に熊浦を一眸の中に集むと。磁石を出し双鏡を開き、以て觀望の備をなす。戒三(官吏の名)牛石に踞(きょ)して休(やすら)ふ。役夫曰(いわ)く「爲(す)る勿(なか)れ、山靈祟あり。輕けれは則ち雲霧、重けれは即ち雷霆神の怒に觸れん」頭を振て大に恐る。須臾(しゅゆ=しばらくの間)にして雲霧四塞、茫々として見る可らす。乃(すなわ)ち諸器を収む。衆皆戒三を譴(とが)めて措(や)ます。(中略) 明治六、七年の間此の地に道士あり。實利と云ふ。能く秘法を修し山靈の崇を鎭すと。乃ち廬(いおり)を此の地に結ひ行法を修す。山麓の民相信して日々燒香するもの數人。是に於て、大臺ヶ辻及東の川より信徒の登るもの大都(おおず=おおよそ)一月に二三十人なりしを以て、路經僅に存すと雖(いえ)ども今や廢絶十年過くるを以て、榛荊(しんけい=いばら等が生い茂った藪)再ひ閉ちて又認む可らす。然れとも斷續其形跡を存す。此の實利なるもの牛石の南東邊に一碑を建つ。面(おもて)に孔雀明王、左に陰陽和合、右に諸魔降伏の字あり。脊に實利及丞の花押あり。左側に明治七年戊三月と記す。後、奈良縣官、其民を惑すを疑ひ、道士を逐(お)ひ、其廬に火す。其殘礎今猶存せり。民今に至るまて之を憾みとす。(以上)

「大和講農雑誌」の「大臺原紀行」    8/3 2015
本欄では「大和山林會報」の『大臺原紀行』を引用していますが、このたび見つかった「大和講農雑誌」の『大臺原紀行』と、本欄の説明との間で幾つか相違があることが分かりました。僅かな相違についてはあまり影響が無いと思いますが、中でも問題となるのは実利行者の花押についてです。「大和講農雑誌版」は、版を組む際にわざわざ造ったと思われる活字「kao.jpg」が使用されていることが分かりました。これは『大臺原紀行』原本には「花押」が描かれていた可能性が高いことを示しています。「大和講農雑誌版」を底本とした「大和山林會報版」は、おそらく「kao.jpg」に似ていた「丞」の活字を間に合わせで使用したものと思われます。しかし、花押の問題を除けば資料として不足はなく、本欄は「大和山林會報版」の引用を継続することにいたします。

kao.jpg 花押の画像は、サイト「き坊の棲みか」『大臺原紀行 大和講農雑誌 版』より転載させていただきました。

明治6、7年(1873、74)牛石ヶ原で修行していた実利行者の許へ、大臺ヶ辻や東の川より一月に二三十人もの信者が登っていたことが記録されています。 このことが災いしてか、奈良県官はその影響力を恐れ大台ヶ原から実利行者を追放しました。「民今に至るまて之を憾みとす」からは実利行者が信者に慕われていた様子と共に、当時の人々の政府への不満がうかがえます。そして、この記録には実利行者が建てた孔雀明王碑が初めて登場します。(孔雀明王碑については「牛石の孔雀明王碑」ページに移動しました)



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孔雀明王碑と牛石    2012年6月6日 撮影




 

3.明治28年(1895)の記録

■ 大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記 ■

植物学者白井光太郎は明治28年(1895)8月植物採集と調査のため、大台ヶ原と大峯に登りました。その記録が『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』(全17頁)として、明治40年(1907)6月発行の日本山岳会会誌『山岳 第二年第二號』に掲載されています。冒頭には登山より12年後の執筆について、「最早十餘年を經たる今日なれば、精細の事は記憶し居らざれども、無きには勝らんかと、本會幹事城氏の求めに應じて、本紙の餘白を汚がす事となせり」と、著者の断りがありますので紹介しておきます。図版資料として『大和國大臺原山上略圖』がついています。実利行者の旧跡を知る上で貴重な資料です。


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山上略圖クリックにより拡大

※ 略図は瀧を中心に描かれているせいか、方位の表示が実際よりかなりずれています。およそですが「西の表示が北北西」「東の表示が南南東」です。


『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』
大台ヶ原に入山する(p4)明治28年8月1日から、前鬼山を後にする(p13)同8月5日迄の記録を引用します。

(p4)
 八月一日柏木を發し、途中植物を採集しつゝ、八時半頃川上村入之波と云ふ處に達し、小憩す、此邊所見の植物及方言の二三を記せば(植物名71種と方言は省略)

(p5)
 十時半畿塲に休み、晝食をなす、此處には土豪土倉氏、伐木の山小屋あり、此處より山上に向ひ、三里の間土倉氏が三萬圓を費して造りし木馬道あり、今盛んに山上より扁柏材を運出せり、此道に附いて上がる、道長けれど困難ならず、途中サワラトガ多し、上り詰めより名古屋谷の松浦氏の小屋迄一里許あり、此間は森林の中を辿り行く事にて、頗る嶮岨なり、道といふ道なし、暫くにして松浦氏の小屋に達す、名古屋谷は山上平原の一部にして、眞の山巓は此より尙ほ一里も上にあり、名古屋川といふ小流あり、小屋の邊より先二十餘町を流れて太さを增し、幅三間許となり、懸崖に至りて落下し、一大瀑布をなす、之を中の瀧と云ふ、高さ三十五間(注1)ありと云ふ、此邊草木茂り、深山の趣あり、白檜帶と三毛欅帶との堺の邊ならん大バメギ、行者カヅラ、ムラサキツリバナ、ウラジロモミ、ムシカリ、ナツツバキ、ブナ、シャクナギ、ヲホナラ、リャウブ、ヤウラクラジ、コメツガ、ミヤマシキミ、アサノハカヘデ、ヒノキ、キャラボク等多し、松浦氏の小屋は二間四方にて數人を入るゝに足れり、當時は神道の行者小森增吉、此小屋に居て、大臺原山神社經營の事に任し、信者より寄附を募り、總檜にて十間四面高四丈六尺の社殿を建築中にて、近傍に作事小屋などありて、大に賑へり、松浦氏小屋は、當時神社の假神殿となりありしが、予は行者と共に此神殿中に宿せり、導者二人は、他の大工小屋に宿れり。

 八月二日行者の案内にて中の瀧の落口に往き、又小屋の近傍西の方なる小高き處にある松浦武四郞氏の追悼碑を見る、碑面の文字左の如し。
  追悼碑
   高等師範學校敎諭 南摩綱紀 撰
大臺山、跨和紀勢三國、其巓夷曠、有水利、拓之可獲三萬石、北海翁欲拓之、年過耳順而登、五次、大有經

(p6)

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(p7)
 畵焉、既而等罹病不果、遺言曰、我死葬此山、及歿嗣子一雄、將從遺言、而官不許、因建追悼碑於山中名古屋谷、以表其綣繾意、謁余文、余及併記翁平生曰、翁夙有志拓蝦夷、屢徃相其地理風土人情物産產、著蝦夷沿海圖廿餘員、三航蝦夷日誌卅六卷、既而幕府置箱館奉行拓之、明治維新置開拓使、擢翁任判官、叙從五位、改蝦夷稱北海道、定國郡地名、以至今日之盛、盖翁之力居多焉、翁乃造大鏡五、背刻日本地圖、殊北海道納之、西京北野社、東京東照宮、大阪天滿宮、太宰府菅公廟、吉野大峯山、以不朽、翁好遊、足跡遍四陲、其至深山窮谷、無人之境也、毎負三小鍋自炊、而起臥林中、後瘞之近江、稱鍋塚、甞遍探菅公遺跡、皆建石表之、又献所畜古錢數百文於朝廷、賞賜千金、翁爲人志大識遠、而氣鋭、克勤克儉、而勇於義、臨時不惜千金、宜其爲非常之事也、嗚呼國家政教日新、開拓之業日進、意必不出數十年、大臺山荊榛變爲禾黍豊饒之地、其猶北海道、於是乎翁泉下之喜可知也、翁諱弘、稱多氣志郎、北海其號、松浦氏、伊勢小野江村人、壽七十一。
  明治二十二年九月    東京  市河三兼  書
              男   松浦一雄 建石

 夫より雨を犯して此處より東北の角に位する山中第一の高峯日の見岳に上る、此頂上に大臺原山一等三角點の標木あり、陸軍陸地測量部にて、明治二十八年七月二十五日に建つる所なり、是予の登山を去る、僅に數日前なり、天氣晴朗なれば伊勢の海まで見えて、眺望佳絶なる由なれども、今日は雨にて何も見えず、遺憾涯りなし、雨は益々降りしきり、全身濡れ鼠の如くなりしも、大に勇を鼓して、仆れ木を越え、荆棘を分け、一生懸命に馳せ下りて、一里程下りて、牛石の原といふ所に出づ、此處は已に曠原の一部にて、地勢平坦なり、牛石といふ大石あり、昔時最澄上人魔性を降伏し、牛石へ伏せ籠めし處といひ傳ふ、途中にまさきの原と云う處あり、此處にカタワラ池と云あり、義經鯛の片身を捨てたるもの、變じて池となると云傳ふ、建石ありて大辨財天影向地の七字を刻す、真田八十八、松浦武四郎の兩氏の建つる處なり、又其近處に大盤石あり、其上に實利行者修行地と彫刻せる石碑あり、是亦松浦氏のたつる所なり、其側に八大龍王の小祠あり、シホカラ谷小字元小屋谷を過ぐ、此に九尺四方の小堂あり、明治の初年實利行者なる者、三年間籠居して修行せし處といふ、此

(p8)
 堂明治七年官より之を焼棄つ、今あるものは明治二十年、松浦武四郎氏の建つる所なり、此處より南の方へ二三町の處に、大蛇倉といふ一枚岩の懸崖あり、此處より眺れば右に中の瀧、西の瀧の二瀑を見る、全面には山上大峯の諸峯相連り、下は幾千百尋の深𧮾にして、風景絶佳なり、既にして雨止み空晴れたり、此邊カウヤマキ、ハヒビャクシン、ゴエフマツの自生あり、其他シャクナギ、マンサク、ミヤマシグレ、リヤウブ、ゴエフツヽジ、コメツガ、ミヅナラ、イラモミ、ヤマアヂサイ、ツタ、ブナ、カマツカ、ナツツバキ、ホンツゲ、コバノト子リコ、ミヤマナナカマド、カナシデ、ムシカリ、アカ子カヅラ、アマチャ、タウヒ、イハグルマ、シロツゲ等あり。
ryuodo.jpgそれより七つ池を經て、松浦氏の小屋に歸り、今夜も此に宿す牛石より此小屋まで三十町許あり、行者と四方山の話をなし、松浦氏の功績を思いつゞけて、此度新築中の大臺原山神社之祭神を問ひしに、造化の三神なるよしをきゝ。
  逸はやくまつらまほしく思ふかな君が惠のいほに宿りて
  優婆塞もひじりも未だ分け入らぬ深山の奥を拓く君はも
の二首を詠じ、君が神靈に捧げ、聊か追悼の志を述べぬ。

 三日晴れ。
導者二人を隨え、午前七時宿舎を發し、山下の小橡村を志して出で立つ、途中一里許行きて、高野谷の開拓場の小屋に達す、乙酉掌記に曰「此地明治三年、京都興正寺家來脇谷、高橋、内田の三人、忠兵衞を案内とし、紀州粉本谷二十津村より、此山へ上り、山中を見聞し、官に乞ふて田畑を開き、粟、稗、麥、大小豆、菜根、いも類を試られしが、二年にして下らる、その殘根今も

(p9)
 有るなり、此地は山中第一の暖地にして、頗る膏沃なり、中絶せしぞ可惜事ならずや、依て開拓塲の稱殘れり」云々又此山の事に委しき前鬼村の五鬼上義正氏も、語りて曰く、明治二年西京興聖寺より、高野谷三丁四方の地を開拓し、ソバ、粟、稗、大根、稻、馬鈴薯等を種植す、當時大根馬鈴薯は好く生育したれども、稻は結實するに至らず、久からずして此開拓事業も廢止せりと、當時の小屋は巳に廢屋となり、今ある所は明治二十年に松浦氏の再建せしものなり、小屋の正面の柱に、左の文字を記す。
motokikoya.jpg大臺中の瀧直立八十一丈三十五間(注1)
  十九年五月八日保田廣太郎(中ノ瀧より千石嵓を攀ぢ降り瀧ツボへ達す昇降五時間なり)
 按ずるに此の保田氏は大和五條の人にして後姓を改めて頓野と云ふ、當時中央氣象臺技師を奉職せり、氏は大臺原山に登山すること前後三回に及べりといふ、最初は明治十三年七月一日、第二回は十九年五月、第三回は二十年七月一日中なりと云ふ、此の事も壁上に記しありしにより知れり。
 此開拓塲の附近水流傍にイハキ(イボタの一種)及オホバメギ多し、予は此二種を他所にて採集せしことなれば、甚だ珍しく思へり、開拓塲より三里許を下り、下りて小栃村に着きしは、午後二時なりしと覺ゆ、途中サハシバノキ、及ブナノキにヤドリキの寄生するを見る、又枯れ木にワタリ(毒菌)の多く發生するものあるを見たり、夫より河合村を經て、白河村に至り一泊す、今日午後より降雨、谷川暴漲し、川上より流木多く來る。

 四日睛。

(p10)
 蚤く宿舎を發し前鬼山に向かふ、此處より釋迦岳の下なる前鬼山へ四里あり、小栃村より近邊の民家にては一般に蜜蜂を飼ふこと、旺ンなり、途中所見の樹木左の如し。
(樹木名76種は省略)
 古代村より一里半の處より、道漸く上りとなる、是れより前鬼山迄の間は蝮其の他の蛇類多く、往々害せらるゝ者あり、現に數月前、二人連の旅人前鬼山に登る途中其の一人蝮に足を嚙まれ、二ヶ月餘煩い難儀せりといふ、予も此の間にて烏蛇蝮などを見たれども、幸ひに害を被らずして止みたり、上り上りて午後二時、前

(p11)

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(p12)
 鬼山行者坊に達し、一宿の事を依頼し、此處に草鞋の紐を解きて、一日の勞を休めぬ、此日前鬼山の附近にてヒラギガシ、ミヤマフヂキ、ヤハズアヂサイ、カウヤマキ、ズジユネノキ、イハナンテン等を採集す、此亦珍奇の種類に属せり。
 前鬼山には人家五軒あり、森本坊、行者坊、不動坊、中之坊、小中坊是なり、坊の主人は僧形又は修驗者にして、役の行者に隨從せる前鬼後鬼の後裔なりと云ふ、山中に住居し、近頃迄他村と婚嫁せず、五軒の中にて互いに結婚し來れるなりと云ふ。
 余の宿りし行者坊は、近頃主人死亡せし爲め、同所森本坊五鬼繼義圓氏兼帶して、事を所理すとて面會せり段々話の中に、松浦武四郎氏、自寫の吉野連山圖を所藏すとの事を聞きたれば、閲覽せんことを請ひたるに直に取出して示さる、之を見るに白紙半折に吉野より那智達する大峯山系の連峯を描寫せるものにして、筆力勁健にして上に一誌を題せり云ふ、一笻一笠裹糧行、前鬼逐從後鬼迎、沐雨櫛風習成性、何論十日破榛荊、實に得難き珍籍なり、松浦氏は此と同樣の圖三枚を作り、之を三所に分置せりと云ふ、其一則是なりと余此時携ふる所の紙を出して之を謄寫し、一拱璧を得たるの思をなせり、然れども此に滿足せず、歸京後義圓氏に翰して、此圖の割愛を請ひ、幸ひに承諾せられ、遂に此眞物を所有するを得て、今尙ほ之を十襲す。

 五日晴。
 早朝より中の坊主人、五鬼上義正氏を先導として、前鬼山裏行塲に往き、植物を棌集す、義正氏は修驗者なり、頭髪は琉球人の結髪の如く、笄を挿み、螺殼狀に結び、衣服は麻の紺染の僧衣の如き者を着せり、途上ヤハズアヂサイ(高七八尺圓徑三寸位)方言ウリナ、コバンノキ等を見る、行き行きて、大黑の窟、三寶荒神の瀧、辨天の森馬頭の瀑、鷲の窟など云ふ處を過ぎ、懸崖の上に出づ、此に二十八宿の鎖と云ふを垂れたり、唐金の鎖の長さ二丈許もあらん、義正云ふ、大抵の人は此鎖の處に來れば、恐れて足の顫動するを見る、されど君は然らず、感ずべしと、直ちに之にすがりて降る、鎖の止りに少しの足溜りありて、其下は深谷なり、其處より屏風の橫掛といふを通りて、三重の瀧の中途に出づ、屏風の橫掛といふは、屏風の如く壁立せる、一枚岩の中途を刻みて

(p13)
 幅六七寸の足止りを作りたるものにて、兩手を擴ろげ、巖面に全身を貼し、一足づゝ足を移して、此間を渡るなり、五間位ありしかと覺ゆ、一歩を過てば、忽ち深谷落つる、頗る危險の處なり、後にて考ふればよく斯の如き處を經過せしと思ふ程なり、此處を過ぎ、三重瀧の側に出づ、此瀧三段に分る、故に名く此處に金剛界と胎藏界との二窟相並び、其前に護魔壇と云ふ處あり、此窟は前には、役の小角、後には聖寳理源大師の千日間修行せし靈窟にして、行者巡禮の靈地なりと云ふ、此處の堆石即ち護魔壇の下に、理源大師手寫の柳卒都婆を藏む、一日一枚を書せしものと云ひ傳ふ、檜の良材にて、幅一寸長さ二尺許の卒都婆を作り、此に梵字を書したるものなり、殆ど一千餘年を經ると雖も、尙ほ其形狀を保ち、文字も亦讀むべし、紀念の爲三葉を得て持歸れり。
 午後行者坊にありて、腊葉を整理する間に同處森本坊の老僧(義圓氏の父)來りて、談話す、其中に四十年以前紀藩の本草家、畔田重兵衞と云ふ人、一僕を具し、此地來り、棌藥せり、體軀肥大の人にて、兩刀を帶び居たり、裏行塲に至り、種々棌集し、此時ツバメラン、ケイビラン、ムギランなど云ふ植物の名を習ひたり云々是則ち畔田翠山翁の事なるべし、此日五鬼上義圓氏(注2)、有名なる前鬼猫の畵を描き、惠與せらる、養蠶室等に貼り置くときは、鼠害を防ぐべしとて需要ありと語る、又同氏著、大峯修業和讃一冊及松浦氏著丁酉掌記を示さる。

(一部旧漢字は新漢字に置き換えています)
※(注1)百三十五間の誤り (注2)五鬼繼義圓の誤り

大台ヶ原をとりまく諸説について

実利行者と大台ヶ原を調べるうちに、大台ヶ原をとりまく諸説に疑問を抱くようになりました。ここからは、『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』を中心に、私が疑問に思うことや、間違いと思える点について検証していきたいと思います。あわせて実利行者の庵跡についても検証します。説明が不十分で読みにくい内容となっています、ご容赦いただきますようお願いします。


◉ 実利行者の庵跡定まる

 『大和吉野より大臺原山…山上岳を經て再び吉野に出ずる記』考証

LinkIcon大和國大臺原山上略圖 拡大


『大和國大臺原山上略圖』には、松浦武四郎が建てたとされる 、(1)牛石ヶ原の八大龍王堂、(2)元小屋谷(元木谷)の小堂、(4)名古屋谷の小屋、(5)高野谷の開拓場の小屋(寄進のみ)が記されています。石碑については牛石ヶ原の大盤石に「実利行者修行地」、碑銘の記載はありませんが牛石の傍らに「孔雀明王碑」と思われる石碑、正木ヶ原片腹鯛池に「大辨財天影向池」、名古屋谷の小屋の西方には「松浦武四郞追悼碑」が記されています。(3)の大臺神社は建設中の大台教会。(2)の元小屋谷は、元木屋谷と呼ばれた時期もありましたが現在は元木谷です。
『山上略圖』中の囲みを次に示します。

明治二十八年八月五日大和吉野山ヨリ大臺原山ヲ經テ釋迦岳下前鬼村ニ至リ行者坊ニ宿ス住僧大臺原山上圖一張ヲ出シ示ス之ヲ見ルニ地名ヲ錄スルコト僅々三四處ニ過ギズ同村小中坊主五鬼上義正氏ハ曾テ修行ノ爲多年大臺原山上ニ棲居シ頗ル地理ニ精シキヲ聞キ同氏ニ就テ諸處ノ地名ヲ增補シ原圖ノ四分一ニ縮寫シ携ヘ歸タル者是也

  明治二十八年十月二十三日      白井光太郎 識

五鬼上義正は中之坊です、小中坊は五鬼助で誤りです。五鬼上義正は実利行者の弟子でした、「曾テ修行ノ爲多年大臺原山上ニ棲居シ」は、実利行者の長期に渡る修行の支援をしながら、自らも大台ヶ原で修行をしていたことを示しています。地理に精しいことも理解できます。

また『山上略圖』左側の説明中「五鬼上義正氏曰 明治二年西原興聖寺ヨリ・・・」についてですが、西原に興聖寺は存在せず、本文(p9)では「明治二年西京興聖寺より・・・」となっています。「西京」を「西原」と誤植したものと思われます。

この誤りについて、広く読まれている菅沼孝之・鶴田正人『大台ヶ原・大杉谷の自然』(1975)は、本文(p9)「明治二年西京興聖寺より・・・」には触れず、場当たり的な解釈をしています。

菅沼・鶴田(p87〜88)
 略図中(大和國大臺原山上略圖)の「西原興聖寺」は西原には宝泉寺以外に寺院はないので、西原にある興聖寺派の寺院と解釈するのが妥当である。

またこの項には関連しませんが、本書は実利行者の修行地についても一部誤っていると思われますので指摘しておきます。

菅沼・鶴田(p90)
 彼(実利行者)は、大台ヶ原山中、牛石ヶ原に小庵を結び、修業に励むこと千日、北山郷をはじめ近隣に信者も増え、信仰登山をする人もぼつぼつみられるようになったが、やがて明治九年、行場を前鬼へ移すのである。ここでもまた千日の修業の後、下北山の石屋灯、五田刈などへ移り、やがて那智一の滝に最後の行場を求め、・・・

実利行者が下北山の「石屋灯、五田刈」で修行したという史実を、私は確認できていません。また牛石ヶ原から前鬼へと修行年や順が間違っています。「石屋灯、五田刈」は古川嵩の修行地として、池田 晋『大臺ヶ原山と大臺行者』、岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』(1923)所収に記録されています。古川嵩の修行地と混同されたのではないでしょうか。アンヌ・マリ ブッシイ 著『捨身行者 実利の修験道』(1977)は念入りに調査され、資料を示して実利行者の修行地が記録されていますが、「石屋灯、五田刈」はありません。実利行者は多くの資料を遺しています、もし「石屋灯、五田刈」の修行が事実なら、何らかの資料があるはずですが私は見たことがありません。

そして26年後に出版された鈴木林『大台ヶ原開山記 〜古川嵩伝記〜』(2001)(p39〜42)にも、同書を参考にしたのか同様の記録が掲載されています。

白井が前鬼を訪れた8年後の明治36年、五鬼上義正は実利行者の故郷坂下に近い落合湯船沢に住み、活動していたことが分かっています。五鬼上義正による刷毛筆の掛け軸が阿木川上に残されています。

大和吉野より(p5)〜(p7)
本書は大台教会建設中の明治28年8月の記録です。(p5)8月1日、名古屋谷の小屋で「當時は神道の行者小森增吉、此小屋に居て、大臺原山神社經營の事に任し」とありますが、「小森增吉」は古川嵩の丁稚奉公時代のあだ名です。名前を桝吉と替えられ、子守をさせられていたときのあだ名が「子守の桝吉」でした。その後手柄を立て藤吉と改名されましたが、この時なぜ本名を名乗らず、丁稚奉公時代のあだ名を伝えたのでしょうか。当時の古川嵩の心情はどのようなものだったのでしょうか。

次は名古屋谷の「松浦武四郞追悼碑」についてです。私は漢文をまともに読むことはできませんが、「松浦武四郞追悼碑」は新旧を含め資料として見かけます。当時の碑は倒壊し、現在の碑は有志により1965年に再建されています。私は松浦武四郎記念館発行の『松浦武四郎大台紀行集』、同『庚辰紀行』と佐藤貞夫氏のサイト『浦武四郎案内処』を通して松浦武四郎を知るのみですが、大台ヶ原登山の目的が開拓にあったとは思えません。追悼碑の碑文には違和感を覚えます。私の知る松浦武四郎と碑文はかけ離れているように思います。

 その巓きはたいらで廣く 水利あり
 これを拓けば三万石を獲べし
 北海翁これを拓かんと欲す

という語句は、何か拠があってのことなのでしょう

 ああ国家の政教、日に新た
 開拓の業、日に進む
 おもえ、必ず数十年を出でずして
 大台山の荊榛は変じて禾黍の豊穣の地となるを
 それ猶北海道においても
 是に於いてか、翁泉下で喜ばるを知るべきなり

大台山も北海道も未開地を開拓し、「豊穣の地」とするという中央国家による国土開発を歌い上げています。武四郎の大台登山の目的が開拓とされた所以です。修験道の信仰の道を大切に考えていた松浦武四郎の思想を、撰者が理解していたようには思えません。この件についてはあまり触れられていませんので、あえて取り上げさせていただきました。撰者の南摩綱紀(1823〜1909)はウィキペディアに掲載があります。


大和吉野より(p7)〜(p8)
8月2日、白井の一行は松浦武四郞追悼碑を見た後、地図中の赤線のコースを辿り、日の見岳−まさきの原−牛石の原−大蛇倉−(1)牛石の原−(2)シホカラ谷小字元小屋谷−七つ池を経て(4)松浦氏の小屋へ帰っています。後の方に出てくる七つ池は現在の七つ池とは位置が異なるようです(p11)図を参照してください。しかし読み進むうち、立ち寄り先の記述が行程順ではなく、振り返る形で前後するため誤解を招きかねません。私は読み解くのに苦労しましたので、私なりの解釈を記しておきます。

牛石の原へ到着し
 牛石の原といふ所に出づ、此處は已に曠原の一部にて、地勢平坦なり、牛石といふ大石あり、昔時最澄上人魔性を降伏し、牛石へ伏せ籠めし處といひ傳ふ

ここでまさきの原を振り返る形で
 途中にまさきの原と云う處あり、此處にカタワラ池と云あり、義經鯛の片身を捨てたるもの、變じて池となると云傳ふ、建石ありて大辨財天影向地の七字を刻す、真田八十八、松浦武四郎の兩氏の建つる處なり

牛石の原から大蛇倉へ行き、牛石の原へ戻り
 又其近處に大盤石あり、其上に實利行者修行地と彫刻せる石碑あり、是亦松浦氏のたつる所なり、其側に八大龍王の小祠あり

牛石の原からシホカラ谷小字元小屋谷に向かい過ぎたところで
 シホカラ谷小字元小屋谷を過ぐ、此に九尺四方の小堂あり、明治の初年實利行者なる者、三年間籠居して修行せし處といふ、此堂明治七年官より之を焼棄つ、今あるものは明治二十年、松浦武四郎氏の建つる所なり

ここで大蛇倉を振り返る形で
 此處より南の方へ二三町の處に、大蛇倉といふ一枚岩の懸崖あり、此處より眺れば右に中の瀧、西の瀧の二瀑を見る、全面には山上大峯の諸峯相連り、下は幾千百尋の深𧮾にして、風景絶佳なり

シホカラ谷小字元小屋谷を過ぐから、七つ池を經て松浦氏の小屋に帰る

実利行者の庵跡

実利行者の修行について調べ始めた頃、大台ヶ原の庵跡が焼き払われたことに強い印象を受けました。庵跡の場所を知りたく調べてみたのですが、当時は資料も少なく手がかりは見つかりませんでした。大凡の場所については、松浦武四郎記念館発行『松浦武四郎大台紀行集』(明治18年の記録)、大和山林會報版『大臺原紀行』(明治18年の記録)、角川書店『捨身行者 実利の修験道』(明治36年の記録)に記述がありましたが場所を特定できるような手がかりはありませんでした。しかし平成27年(2015)5月になり、田村義彦氏より『山岳 第二年第二號』掲載の『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』と『大和國大臺原山上略圖』のコピー資料をいただきました。そして同7月田村氏によって『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』がネット上に公開されました。そこには四日市製紙「大正六年度伐採地調査図」(大正五年十月)が掲載され、元木谷源頭左岸に苦業場と記されていて驚きました。また他の2枚の地図でも、同じ場所が「行場」と記されていると述べられていました。この苦業場と記されている場所は、『山上略圖』の「(2)元小屋谷(元木谷)の小堂」の位置と同一視してよいと思います。筆者の田村氏は蓄積された経験と資料から、ここが実利行者の庵跡と判断され同年6月24・25の両日現地を調査されました。

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出典:<川端一弘 著 『旧四日市製紙資料から復元した伐採前の大台ヶ原林相』(2009)の資料調査図(大正六年度伐採地調査図面部分)>『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』(p4)より転載(地図中囲み文字「場業苦」は田村氏による)



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クリックにより拡大

出典:日本科学史学会生物学史分科会 編『生物学史研究』No.81(2009)所収 川端一弘 著『旧四日市製紙資料から復元した伐採前の大台ヶ原林相』(p12)より



『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』の一部を以下に引用します。

田村筆(p8)
 130年後のいま、ミヤコザサが茂る森の中に明瞭な跡地、建物や生活の痕跡を見つけることは至難の業であるが、尾鷲辻から50m程牛石ヶ原方向へ進んでから、70m程元木谷へ下がったところに、人の手で平らにしたと思われる4mx3m位の平地を見つけた。見当をつけていた場所ではあったが、あっさり見つかったので拍子抜けであった。東と西を元木沢の源頭に挟まれた台地である。元木谷のここから上流は、漏斗のように正木ヶ原の雨水を集めるが、その流路が登山道として整備されているので、自然な沢の姿としてはこの地点が文字通り源頭である。四日市製紙の「事業計画書」の大正7年1月9日に、「給水ハ塩辛谷ノ水ニテ十分入シ得、谷ノ水ハ年中堪ユル時ナカルベシ、故ニ堀井ノ必要ヲ認メズ」と書かれてある。武四郎は「其傍に行者自ら掘りしと云井戸有て水よく湧でたり」(「乙酉紀行」)と書いている。井戸の跡は見当たらなかったが、この場所は井戸を掘らなくても水に恵まれ、風を避けられる最適の場所である。(中略)この場所から更に牛石方向へ進むと元木谷との落差が一気に大きくなるので、この場所が最適で、かつ限界である。武四郎が、護摩供養の信者宿泊用の仮屋を建てたと思われる平地も沢を隔てて見つかった。


photo2.jpg

『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』(p8)より転載

田村筆(p10)
 (追記:9月14/15日再度、三人で前回よりも広範囲に調査したが、別の場所を見つけることはなかった。此処しかない、という確信を固めた。)
以上


LinkIcon国土地理院地図で見る苦業場



しかしこの「苦業場」については、古川嵩が修行をした場所として記された可能性が高いと思います。古川嵩は明治24年(1891)7月、武四郎の建てた元小屋谷(元木谷)の小堂(小屋)で初めて一週間の断食修行を行いました。池田 晋『大臺ヶ原山と大臺行者』、岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』(1923)所収(p133〜134)には「翁は元木屋谷に歸つた其翌日から一週日を期して斷食し終日終夜無言端坐の行を始めた」と記され、その後ここを起点として修行を続けています。


『吉野群峯踏破記』
もう一方の資料、芳山生『吉野群峯踏破記』、木本光三郎 編『吉野群峯』(1917)所収、には古川嵩教会長に案内された筆者(芳山生)の記録があります。なお「芳山生」は、吉野群峰踏破団の奈良班に奈良実家高等女学校教諭として参加している、「森口奈良吉」と思われます。同、退職後春日大社宮司を務め、号を芳山と称しています。

大正4年(1915)8月2日の記録(p33〜34)
 朝十時會長に案内せられて、日ノ出嶽に上つた、高さ千六百九十五米、山上嶽より二十五米計低い、四方濃霧で一向霽れなかつた、明治二十八年七月廿五日建設の陸軍測量部一等三角點標も殆ど破損に瀕して居る、之より南二十五町を距て十二時廿分正木の原にカタハラ池を見た、この辨財天影向池の建石は眞田八十八、松浦武四郎氏の建てしものだ、カタハラ池は義經鯛の片身を捨てたるもの變じて池となつたと言い傅へるが全く謠曲國栖の放鮎をもぢつた者ださうだ、其より南十五町に修業地の趾がある、こゝはシホカラ谷の元小屋谷で、明治初年實利行者が三年間籠居して修行したのを、七年官命にて之を焼棄てた、其跡へ松浦武四郎氏が小屋を建てた、今は古川氏最初難行の地と立札をして居る、此近くに牛石原があつて八大龍王堂の跡を存して居る、牛石は最澄が魔性を降伏せしめて、其上に石を伏せし處だと唱へられて居る、

地図の作者がどちらを意識して「苦業場」と書き記したのかはわかりませんが、この場所が実利行者の庵跡を示していることに代わりはないでしょう。

—  実利行者の庵跡ここまで  —



大和吉野より(p8)〜(p9)
明治28年8月3日、白井の一行は(4)名古屋谷の小屋を出発して小橡村を目指します。途中(5)高野谷の開拓場の小屋に立ち寄り、「當時の小屋は巳に廢屋となり、今ある所は明治二十年に松浦氏の再建せしものなり」と記されていますが正しくありません。

松浦武四郎は明治20年(1887)5月11日、新築成った元小屋谷(元木谷)の小堂に向かっていました。その途中、玉置郡長による開拓場の堂宇建設について記しています。

参照資料『松浦武四郎大台紀行集 乙酉紀行・丙戌前記・丁亥前記』松浦武四郎記念館(2003)

丁亥前記(p123)明治20年5月11日
 経塔石。是膽誓上人の修行の地なり。従是右の方に下る。凡十二丁。右の谷ふかし。是小橡の水源なり。下て開拓場に出る。此十二丁の坂、一昨年余が来りし時は篠、生しげりて道形ちなかりしが、今度は一筋の道となり、また開拓場も茨生茂りしも、今は大工三人程入りて作事に懸り居たり。是は玉置郡長五円を小橡村に遣わし、一棟可立様に被申付しと。依て二間半三間の堂を村にて立ると云。余も此作事に金五円を寄進したり。

武四郎は金五円を寄進していますが、堂宇建設は玉置郡長によるものです。また、池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』、岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』(1923)所収にも、これを裏付ける記述があります。

池田晋(p75)
 開拓に足を入れた一行は、その以前登山した當時の吉野郡長玉置高良氏が此處に一夜を藉る爲に特にしつらへしめた小屋が朽ちながらに殘ってあるのを幸ひ足を此處に休める事にした。

しかし明治20年5月に建設中で、明治28年8月3日に白井光太郎が見て記録している小屋が、明治24年6月の古川嵩大台初入山の時点で、「一夜を藉る爲に特にしつらへしめた小屋が朽ちながらに殘ってある」とは疑問が残ります。

開拓場の堂宇(小屋)建設については、前年明治19年5月1日、武四郎が玉置郡長を訪ねた際の記録があります。

丙戌前記(p66)明治19年5月1日
 大台山え人足(アシ)をつけんとには、神仏を祭るにしかじとて、同人の考按には開拓場へ先第一不動堂を建築し、是え明治初年の頃十津川より預ヶ置し不動尊、聖護院に有る故、是を安置して諸人に拝せしめんと。頗る妙按なり。是と申すも郡長其地の事を熟知し、人情を審にするが故なり。

武四郎は玉置郡長に開拓場の堂宇建築の意思があることを知り、共感して金五円を寄進したと思われます。

この誤りは重大です、白井博士の権威からか後に検証されることもなく、高野谷の開拓場の小屋は武四郎が建てたと定説化され、混乱を招いています。現在も検証されず、高野谷の開拓場の小屋は武四郎が建てた、とする記録を多く目にします。

高野谷の開拓場の小屋ではもう一つ誤りがあります。

小屋の正面の柱に、左の文字を記す。
  大臺中の瀧直立八十一丈三十五間
  十九年五月八日保田廣太郎(中ノ瀧より千石嵓を攀ぢ降り瀧ツボへ達す昇降五時間なり)
 按ずるに此の保田氏は大和五條の人にして後姓を改めて頓野と云ふ、當時中央氣象臺技師を奉職せり、氏は大臺原山に登山すること前後三回に及べりといふ、最初は明治十三年七月一日、第二回は十九年五月、第三回は二十年七月一日中なりと云ふ、此の事も壁上に記しありしにより知れり。

この小屋の柱の文字については、小屋を取り違えているようです。柱に文字が記されていたのは元小屋谷(元木谷)の小堂です。
「丁亥前記」(p124)明治20年5月12日、武四郎が巴が淵の方に参詣した後、元小屋谷(元木谷)の小堂に帰り柱の文字に気づきます。また、保田廣太郎の登山の日付にも矛盾があります。最初の登山が明治十三年七月一日、第二回は十九年五月、第三回は二十年七月一日中となっています。第三回の二十年七月一日に記したならば、武四郎が明治20年5月12日に見ることはできません。武四郎が見る事ができたとすれば、第二回の十九年五月に小屋が建っていなければなりません。しかし、第二回の十九年五月は武四郎の二回目の大台登山にあたり、登山前の同年四月に大阪府知事宛に願書を出し、小堂や石標を自費で建設したいと願い出ています。この時点で小屋が建っていたとは考えられません。開拓の小屋ならば明治20年5月11日に建設中なので、二十年七月一日は可能性はありますが、武四郎が見る事はできません。保田廣太郎の登山の日付は矛盾しています。

丁亥前記(p124)明治20年5月12日
 十二日。快晴。余は巴が淵の方に参詣。岩本、□と外十余人を連れて、牛石に出。大蛇くらに至り、此方より此くらの上を伝ひて来り見る。桧、樅、五葉等其枝さまざま実にも画にも成難き有る処に至る。一回りして小屋に帰る。扨昨夜は気が付ざりしが、今見る哉仏殿の柱に大和国五条保田広太実測、中瀧直立八十一丈 此間百三十五間 と記し、此小屋に来り一宿せし由にて我えの礼を演じ有たり。是を見て此小屋の用に当りしことを知る。

と記しています。
この後12時頃より、参詣者60名ほどの人々が集まり牛石ヶ原にて採燈護摩が挙行されました。


大和吉野より(p13)
明治28年8月5日、ページ後半で森本坊の五鬼繼義圓より「前鬼猫」を恵与されたことが記されていますが、「前鬼猫」とは刷毛筆で猫の形に書いた養蚕の守り神です。当時は森本坊が刷毛筆による梵字や「前鬼猫」を教えることで知られ、坂下の実利教会には実利行者の肉筆による「前鬼猫」の掛け軸が収蔵されています。実利教会では「猫さま」と敬称をつけて呼ばれています。


玉置郡長による高野谷の開拓場の堂宇(小屋)建設、中央気象台技師保田廣太郎が柱に記した文字の小屋間違いについては、田村義彦氏『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』を参考にさせていただきました。


八大龍王堂
牛石ヶ原の「八大龍王堂」の存在や、場所については幾つかの説が存在します。原因として考えられるのは、おそらく武四郎が大台ヶ原に建てたとされる小屋(小堂)の数が問題になっていると思います。明治19年(1886)4月、武四郎は大台ヶ原へ小堂三ヶ所の建設と石標十余箇所の設置許可を大阪府知事に願い出ています。ところが「大和國大臺原山上略圖」に見られるように、大台ヶ原には、(1)牛石ヶ原の八大龍王堂、(2)元小屋谷(元木谷)の小堂、(4)名古屋谷の小屋、(5)高野谷の開拓場の小屋、合わせて四ヶ所の建物が存在します。大阪府知事に願い出た「大台江小堂建設之義御聞置願書」では、小堂三ヶ所の建設を願い出ていますので、一ヶ所は裏付けがありません。それを「八大龍王堂」とすれば、武四郎は「八大龍王堂」を建てていない、等と考え得るでしょう。

しかし大和吉野より(p8)〜(p9)で述べたように、高野谷の開拓場の小屋は玉置郡長によって建てられたとしてよいでしょう。そうであれば、必然的に、(1)牛石ヶ原の八大龍王堂、(2)元小屋谷(元木谷)の小堂、(4)名古屋谷の小屋、は武四郎が建てたことになります。次いで関連する記録を示します。

明治19年4月23日、大阪府知事宛ての「大台江小堂建設之義御聞置願書」を小畠正心に託します。

丙戌前記(p58)明治19年4月23日
 二十三日。雨中、中の島なる小畠正心を訪ふ。正心は山口原県令の従弟にして、此度大台の一件をよく世話致し呉る人なれば、我が存意書を此人を以て、知事にさし出貰ふ。正心宅は知事のうら隣にして、朝夕宅へ出る由なれば、楯野候よりも万事同人に託せよとの言有しが故なり。

「大台江小堂建設之義御聞置願書」を小畠正心に託した4月23日から数えて十日目の5月3日、武四郎は牛石に至りその後堂宇建築の場所を確かめます。

丙戌前記(p68)明治19年5月3日
 十二時前に経塔石に出、是より右に下りて開拓場に出、昼飯して滝の上通り。五十丁斗行に是も細かくかり分有し結え大に楽にぞ有ける。牛石に至る。こゝらあたりと堂宇建築の場所等積りを付、三時また少々粥を煮て喰し、薄暮開拓場にもどりて泊まりける。

三日後の明治19年5月6日、小橡にて河合村戸長奥田守亮に、牛石の小堂建築費二十円を渡すよう依頼する。

丙戌前記(p70)明治19年5月6日
 六日、おりおり雨降る。今朝は八時頃まで亀一来るべしと約し置たるに不来。十時過れども不来。十一時になれども不来。依て我は先立たんと云しや、主人山中、巧者の者を案内にとて厚くも射場重平と云此山中巧者の男を呼て余に付添呉る。告暇に臨んで、牛石え小堂建築費二十円を渡して出。早十二時頃なり。

翌明治20年5月11日、武四郎最後となる三回目の登山で、新築成った元小屋谷(元木谷)の小堂に到着します。翌12日には快晴のもと、参詣者60名ほどの人々が集まり採燈護摩の後餅投げが行われました。

丁亥前記(p124)明治20年5月11日
 塩辛谷のすじを上ることしばしにて、新築の小堂に至る。此辺桧、樅、榑多く苔多し。小川有。山の懐にて風も静なり。堂は一間半中に炉を切、正面三間に仕切。中に孔雀明王の負を入、其一方に五間に三間斗の仮家を建たり。最早十名斗先に来りて粥を煮置り。故に是を喰て休ひたり。薄暮になりて追々来る者多し。

これで、前年明治19年5月6日に河合村戸長奥田守亮に託した牛石の小堂建築費二十円は、元小屋谷(元木谷)の小堂建築を目的としていたことが分かります。

そして新築成った元小屋谷(元木谷)の小堂を確認する三日前の明治20年5月9日、小橡にて河合村戸長奥田守亮に逢い、当年小堂二ヶ所建築料三十円を渡し二ヶ所の建築を依頼しています。

丁亥前記(p121〜122)明治20年5月9日
 戸長役所に至る。奥田守亮に逢、草々同道致して小橡村に至(此間十八丁)。此処洪水の節は往来留りしが、改道に成候て、今度は川合より東の山の根通りを村に至る。同家にて粥を煮貰ひ昼飯す。一睡して当年小堂二ヶ所建築料三十円を守亮に頼。三時頃より出立。

この当年小堂二ヶ所建築は、名古屋谷の小屋と牛石ヶ原の八大龍王堂とするのが妥当でしょう。しかし翌明治21年2月10日、武四郎は亡くなり四回目の大台ヶ原登山は果たすことができませんでした。完成していたであろう名古屋谷の小屋、牛石ヶ原の八大龍王堂を見ることは適いませんでした。


御手洗池・「八大龍王影向池」「実利行者修行地」碑
次に「大和國大臺原山上略圖」に描かれていない「御手洗池」と「八大龍王影向池」の碑、「実利行者修行地」の碑について考えてみます。

現在御手洗池には「八大龍王影向池」と「実利行者修行地」の碑が並んで立っています。この石碑について「松浦武四郎案内処」『もぐらもち新聞 〜最近登った山 2004年5月下旬〜』には、佐藤貞夫氏が松浦武四郎記念館の職員と2004年5月24日に調査をされた次のような記録があります。

 近くにある池(今は干上がっている)の周囲を注意深くみると、その両端に石柱が二つ無造作に転がっている。一つは横倒しになって草に埋もれ、一つは池の柵杭に倒れ込んでいた。これだ。柵杭にもたれている方の刻字は鮮明に読めたが、横倒しの方はよく分からない。裏返してみると、そこには「真田八十八/松浦武四郎」と記してあった。両方同じである。

そしてこの記録は「大台ケ原・大峰の自然を守る会」田村義彦『増補改訂版 大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる(6)』(2015/12/11)に次のように引用され、説明が補足されています。

 Web「もぐらもち新聞」2004年5月24日「最近登った山」、に次のような記載があった。(一部引用略)記されているのは、偶然にも環境省の施工直前の様子である。環境省によると、測量設計期間は4月28日〜8月17日、工事期間が10月27日〜12月24日である。「柵杭にもたれている方」が実利行者碑であろう。そして御手洗池の「反対の端」北端に「一つは横倒しになって草に埋もれていた」のが、八大龍王碑であろう。しかしその場所では、このたびの工事で池の周囲にロープ柵を張れば入山者は石碑を見ることができなくなるので、環境省は歩道の端まで移動させて、実利行者碑と対になるように配置したことが窺い知れる。環境省も「記録がないので推測の域を出ないが」と前提して、同意を得た。

この工事の件については私も一部資料を拝見する機会があり、佐藤貞夫氏の記録と併せ検討しました。その結果、柵杭にもたれている方が「実利行者修行地」の碑、御手洗池の反対の端(北端)に横倒しになって草に埋もれていたのが「八大龍王影向池」の碑であることを確認しました。

『山上略圖』の大盤石上には「実利行者修行地」の碑が記されていますが、大盤石には昭和3年(1928)8月に「神武天皇像」が建てられました。その工事に伴い「実利行者修行地」の碑は大盤石から降ろされ、御手洗池の近くに移されたものと考えられます。 

「八大龍王影向池」の碑については以前どこに立っていたのか不詳です。しかし御手洗池以外の場所に存在した形跡もなく、片腹鯛池の傍らに「大辨財天影向池」の碑が立てられた理由を考慮すれば、同様に御手洗池の傍らに「八大龍王影向池」の碑が立てられたとしても不思議ではないでしょう。「影向池」の意味からしても池のちかくに立てなければ道理に合いません。

「八大龍王堂」が八大龍王が影向する御手洗池の近くに建つのは合理的で、他の場所について考え得るのでしょうか。(p8)の八大龍王堂のスケッチとは棟の向きが違いますが、よく似た形の建物が『山上略圖』に記されています。「実利行者修行地」の碑は大盤石の上に記され、牛石の「孔雀明王碑」は現在の場所ではなく、大和山林會報版『大臺原紀行』の記録や、当サイト「牛石の孔雀明王碑」ページ後段の『岩塊に立つ孔雀明王碑』が示すように、牛石の南東辺に記されています。略図とはいえ牛石や「孔雀明王碑」大盤石の位置関係も適っています、当時の大台ヶ原を知る上でたいへん貴重な資料です。そして20年後の大正4年(1915)8月2日、実利行者の庵跡にやってきた芳山生は此近くに牛石原があつて八大龍王堂の跡を存して居ると記録しています。

『松浦武四郎案内処』の「大台山頂眺望図をめぐって」には、佐藤貞夫氏による次のような結びの言葉が添えられています。

 「武四郎は牛石ヶ原が実利行者の修行地であり、彼が畏敬すべき存在であると顕彰したかった。 武四郎の三回にわたる大台ヶ原登山は、開山・開路のためであり、その最終目的地は牛石ヶ原にある。 ここに祠を作って観音か不動の像をおさめ、あわせて実利行者を顕彰しようとした。もし明治二十一年彼が健在であったならば、牛石ヶ原に小さな祠が建ったのではなかろうか。今は牛石ヶ原の一角にも立てなくなった我が身であるが、そんなことをむなしく空想するのである」


牛石の伝説
牛石の伝説は私の知る限り本書の最澄上人説と、仁井田長群『登大臺山記』の理源大師(聖宝)説があります。最澄上人説の案内人は大和の吉野で雇われ、理源大師(聖宝)説の仁井田長群は伊勢の木津で案内人を雇っています。私は門外漢ではっきりしたことはわかりませんが、最澄上人は天台宗の開祖で本山派、理源大師は真言宗当山派修験道の祖とされています。案内人の影響も考えられますが、つまるところはそれぞれの宗派の解釈と言うことでしょうか。拙頁は記録の順から『登大臺山記』の理源大師(聖宝)説をとってきました。

またこれとは別に、丹誠上人が牛石に変化物を封じ込めたとする異聞を散見します。これは慶長十一年に弾誓上人が経ヶ峰に七本の塔婆を建て、変化物を封じ込め、伯母峯道を開いたとする言い伝えからの創作と思われます。実際の弾誓上人の言い伝えは明治の初めまで残っていて、その言い伝えは江戸中期の宝永までさかのぼることができるといいます。この言い伝えの弾誓上人については、
<大江希望 福山周平の「由来記」【5】座禅石・【7】弾誓上人のこと>に詳しく紹介されています。ぜひ参考にしてください。




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大辨財天影向池の碑(一辺約14cm、高さ60cm程)2013年6月11日 撮影

正木ヶ原の登山道脇に立てられています。裏面には連名で松浦武四郎、真田八十八と刻まれています。2004年6月に松浦武四郎記念館の学芸員が調査された時点では、『山上略圖』と同様に片腹鯛池の傍らに立てられていたそうです。(注3)石碑の刻字「大辨財天影向池」の意味からすれば、片腹鯛池に立てられていることに意義があると考えます。どのような理由で説明など何も記されないまま、元の場所から40m程も離れた現在の場所に移されたのでしょうか。このままでは元の場所も分からなくなり、歴史的意義が損なわれてしまいます。牛石の孔雀明王碑についても言えますが、大台ヶ原の自然を大切にするのと同様に、歴史やその遺跡に対しても相当の配慮をお願いしたいと思います。

※(注3)佐藤貞夫『松浦武四郎案内処』講演会配布資料(2008年12月13日)於松浦武四郎記念館 <松浦武四郎と大台ヶ原『松浦武四郎大台紀行集』を読む>



白井光太郎と大台ヶ原の関わりについて、より詳しい論考 大江希望『古川嵩について(第8節)』を紹介させていただきます。参考になさってください。



「大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て・・・」訂正 3/28 2022





4.明治36年(1903)の記録

■ A・マリ ブッシイ著 『捨身行者 実利の修験道』 角川書店 1977年発行 ■

同書(p39)には当時の那智大社宮司篠原四郎氏の父で、同郷の実利行者を知る木曽御嶽行者篠原源岳が明治36年、大台ヶ原に登山したときの様子が紹介され、その中に牛石の孔雀明王碑が出てきます。以下にその内容を引用します。

 岐阜県恵那郡武並村出身で、木曽御嶽行者であった篠原源岳(現在の那智大社宮司篠原四郎氏の厳父)は実利行者の存在を知っていた。したがって、明治三十六年に大峰と大台ヶ原に登山したときの手控えに、次のように書いている。大台ヶ原に登り此山内を廻る内、諸魔除伏陰陽和合、度々孔雀明尊、明治七年建立、実利印。こんな石柱が牛石という所に建ててあった…(中略)大台ヶ原山より組峠への道開き最中、山中には実利行者の小屋焼跡あり、警察に追われ此所に逃れ、又もや警吏の知る処となる。焼払追出したりと、此頃の行者は随分難儀なりし事を証す。すくなくとも明治七年に実利は大台ヶ原で修行していた。なお、大台ヶ原教会開祖古川嵩は、実利の直弟子でないとしても、この先輩行者の道について行ったと大台ヶ原教会の主管田垣内政一氏は語ってくれた。実際に実利行者は牛石ヶ原だけに埋経したのではなく、大台ヶ原の経ヶ峯、経堂塚、如来石、日本花、ともえ嶽、堂の森にも修行をしたという。ともかく、修験道禁止の時でも、熱心に修行を続けた行者の熱烈な信仰というものは、迫害に屈しないということで興味深いことである。(以上)

明治24年(1891)6月、入山を許された大台教会開祖古川嵩は初めて大台ヶ原に入りました。それから8年後の明治32年(1899)8月に大台教会の神殿が完成しています。木曽御嶽行者篠原源岳が大台ヶ原に登山した時には、大台教会完成後既に4年経過しています。篠原源岳と古川嵩は共に岐阜県の出身で、この登山の目的は大台教会を訪ねることにあったように思われます。実利行者の大台ヶ原での修行について、「警察に追われ此所に逃れ」と手控えに記録しています。当時の修験者の間ではこのように認識されていたのでしょうか。実利行者が大台ヶ原を修行の場として選んだ理由について、言及されているのはこの記録だけではないかと思います。一方、大江希望氏の新しい研究では弾誓上人の影響が指摘されています。『捨身行者 実利の修験道』には資料をまとめた「資料編」がありますが、牛石の孔雀明王碑については記載がありません。また、文章中の「組峠」は「木組峠」と思われます。


「大台ヶ原に於ける実利行者の記録」 改訂 07/10 2020
04/02 2024



<孔雀明王碑については「牛石の孔雀明王碑」ページに移動しました>



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正木ヶ原    2006年10月 撮影




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大蛇ぐら不動返し岩    2006年10月 撮影










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