実利行者の足跡めぐり

下北山 佐田 福山家

奈良県下北山村佐田  2013年6月12日
福山周平氏は実利行者に深く信頼された有力な弟子でした。天保10年(1839)生まれで、大正10年(1921)享年82才で亡くなりました。実利行者より4才年長であったことも、信頼された理由に挙げられますが、村では相当の影響力のある人物であったようです。アンヌ・マリ ブッシイ 著『捨身行者 実利の修験道』(角川書店1977)には、福山家所蔵の実利行者の遺書や遺品が12品目紹介されています。福山家では遺書や遺品が大切に扱われ、時を感じさせないような状態に保たれています。遺書も貴重ですが、この中には氏が最も影響力を発揮した怒田宿の新築と、大峯山道修繕に関わる記録が含まれています。また、ブッシイ氏の研究に大きな役割を果たした、「勤行本」や「由来記」が目を引きました。( 以下の画像は平成25年6月12日撮影 )

御本尊不動明王


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厨子に納められた不動明王像が、高さ47cmの家屋形の厨子の中に入っています。ブッシイ氏が昭和50年(1975)に調査をされた際、ガラスのはめ込まれた前面の扉が外れることに気づかれました。中には厨子に納められた不動明王像があり、厨子の中から「由来記」が発見されました。




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前面の扉を外した状態




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厨子に入った不動明王像(高さ15cm)


由来記


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「由来記」については大江希望氏により、平成28年(2016)に『 福山周平の「由来記」』として発表されました。「由来記」の記述「水上入御せんゲ被遊給」について、ブッシイ 著『捨身行者 実利の修験道』との違いについて検証され、興味深い内容です。論考は「由来記」にとどまらず、これまでの実利研究がまとめられ、私が今までに感じていた疑問も精査され解明されています。

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私が最も疑問に思っていたことは、神仏判然令やそれに起因して起きた廃仏毀釈運動、立て続けに修験宗廃止令が出される中、山籠もりはともかく、どうして旅日記にあるような回国巡礼ができたのかということでした。これについては、[【6】「怒田宿新築」、「道路改修」のことなど ]の後段で述べられています。ここで引用されている 愛知学院大学 禅研究所紀要 第30号 平成14年3月発行 林 淳『明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察 〜 天台・真言への帰入問題 〜 』は比較的新しい研究で、たいへん参考になりました。

二つ目は、実利行者が大台ヶ原を修行の場として選んだ理由ですが、[【5】 座禅石 ]の中で弾誓上人について述べられています。

『 福山周平の「由来記」』の中で、今まで精査されてこなかった実利行者の入定前の一連の修行(明治15年怒田宿新築〜17年入定)、について述べられているところは心を打たれます。

福山周平氏が深く関わった、怒田宿の新築と大峯山道修繕については、『 福山周平の「由来記」』が詳しいのでここでは省略させていただきます。


 

実利行者尊遺書

遺書は同文のものが二組あり、もう一組は寺垣内の正法寺に遺されていました。正法寺の遺書は、現在下北山村歴史民俗資料館に保存されていますが、虫食いが激しく読むことが困難な状態です。遺書は実利行者が捨身する2日前に書き残されたもので、異なる内容と宛名の6通から成り、それに表紙をつけて綴じられています。はじめて遺書を手にしたときには、実利行者がそこにおられるような気配を覚えたほどでした。



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実利行者尊遺書

表紙を開いた状態(一枚目) 解読は『捨身行者 実利の修験道』(p149)より

長々御世話ニ相成大峯山も
大法道路出来仕久々の
御厚おんをいただき今爰ニ
無常のけむりとなる事
いんゑんなれば此段御断
り申置候諸種せ(施)主方江
宜敷頼上奉候
  恐々謹言
明治十七年四月十九日

北山三名方
新し
和田      林実利




幾度の取材にも係わらず、福山ヤスエ氏からは多大なご協力をいただきました。ブッシイ氏取材当時の、興味深いお話などを伺うことができました。厄介な依頼にも快く応じていただき、たいへんお世話になりました。ご協力に感謝いたします。



福山周平氏と大台教会

福山周平氏は大台教会の設立に大きな役割を果たしました。ブッシイ著『捨身行者 実利の修験道』(p65・66)では、氏が実利行者入定から13年後の明治30年(1897)、実利行者の歌を書きとめていることに加え、大台教会開祖古川嵩氏について述べています。(以下)

 福山周平氏の手控えには実利の歌がたくさん採集されている。ここでは歌は破調でむしろ都々逸に近い俗謡の形をとっている。(中略)そしてこの歌を福山周平氏は明治30年に書いている。おそらく何かに手控えをしていたのかもしれない。この時、すでに実利の捨身後13年たっているが、福山周平氏の実利追慕の念はますます大きかったと思う。このころから彼は古川嵩氏とともに、実利のひらいた大台ヶ原に教会を建てることに奔走しはじめる。ことによると彼の夢枕に実利があらわれて語ったのかもしれない。

古川嵩氏が大台ヶ原入山を許され、初めて大台ヶ原に足を踏み入れたのは明治24年(1891)6月24日です。一行5名の先達は山に詳しい奥村寅治氏、介添えとして奥村善松、平嘉平治氏と共に福山周平氏が同行しました。周平氏はこのとき52才。その後大台ヶ原に祀る祭神を求め、上京した際にも同行しています。明治26年には大台教会建設に着手し、建設一切の総支配を福山周平氏が務めました。そして6年後の明治32年、大台教会が完成しています。福山周平氏が実利行者の歌を書き写したとされる明治30年は、大台教会が完成する2年前にあたります。当時大台ヶ原で教会を建設するのは容易ではなかったと思われます、2年後の完成に向け目途がついた時期だったのでしょうか。大台教会建設という大事業に向け、亡き実利行者に誓いを立てていたのかもしれません。この大事業を見たとき、実利行者と共に福山周平氏や信者、村民が成し遂げた、怒田宿の新築と大峯山道修繕の事業が思い起こされます。人々の心に刻まれた、当時の高揚感や達成感が再び蘇ったことでしょう。福山周平氏は大台教会設立の功労者として、大台教会副会長の任につきました。

岡本 勇治 編『世界乃名山 大臺ヶ原山』1923(附)池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』(p277)には「大臺開拓の功勞者」として、奥村善松父子、奥村淺太郎父子、岩本武平父子、奥田與四郞、山本丑之助父子、土倉庄三郎、淸水萬太郎、土井與八郎、東定吉、櫻井平八、藤村繁太郎の名前が上がる中、その筆頭に紹介されています。

 下北山佐田の里に福山周平と云う人あり、天性篤實にして道を好み、曩者林實利師に服して道を問いつゝありしが、實利師去るや、歎惜して措くところを知らず、師が積年の志湮滅に歸せんとて、只管良師友を求めける程に、偶々古川翁の來りて布敎するを見、其信念の牢乎たる、其淬礪の勇猛なる、山を抜き世を葢うの概あるに服し、進んで翁の帷幄に参じ、熊野の布敎には常に嚮導の任に當り、東京に追隨して敎會の設立に聲援し、敎務を補佐して信徒の結集に努力し、大敎堂の建築には前後七年の歳月、殆ど家事を抛ちて敎務に當り、翁の股肱となり、翁の腹心となり、尙且つ資財を棄てゝ翁を援くる等、其功勞の顯著なる、内外齊しく感謝して已まざるところ、氏夙に敎使の任を受け、神習敎權少敎正五等神敎使として、大臺副會長の任にあり。


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岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』 (大台教会本部 大正12年)圖版寫眞より







『大臺ヶ原山と大臺行者』

この度、福山周平氏が大台教会設立にどのように関わったのか調べるため、岡本勇治 編『卋界の名山 大臺ヶ原山』大台教会本部 大正12年発行(附)池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』を読みました。本書は63才になった古川嵩氏に依頼され、著者が聞き取りをもとに記録し編纂したとされています。その中で、実利行者と松浦武四郎について不可解な記述を見つけましたので指摘しておきます。 (一部旧漢字は新漢字に置き換えています)

実利行者について
(附)池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』
(p58・59)
 信仰の流浪者………
北山村民には、その昔信仰の的があった。それは美濃國惠名郡阪下村の產で、林實利と云ひ、大臺ヶ原牛石ヶ原で行を納めて以來、村民からは生き神と尊稱され、信仰の柱と頼られて居た。實利行者は、遠く大峰山を開いた役の行者を崇拜私慕し、煩累を大臺ヶ原に避けて一意行ひすまして居た。實利行者在山當時下北山村を中心として、行者を尊崇する弟子は近村に數多くあつたが、行者は其後東牟婁郡那智山に行場を移し茲に庵を構へて、遂に一生を辛酸の苦行にをへ高齡を保つて靈山那智一ノ瀧で大往生を遂げた。今迄信仰の柱となり人神の介在者となつてゐた、行者の大臺退山と共に信仰上の流浪者となって居た村人は偶々壯年の行者、古川嵩翁が入村し苦行具さに憂患の村民を奇蹟的に救助するので一村忽ち『實利行者の再來』と稱して膽仰した。當時逸早く石屋燈の行場に走せ集まつて翁に師事したのは新吉太郎北榮藏福山周平和田喜平の數氏でその中にも福山和田の二人は心をかたむけて嵩を崇拜信仰した。新吉太郎氏は新宮に現住の人であるが今でも『大臺行者が下北山村で漸く芽を出し掛けたのはこの時からであった』と云ってゐる。
(p89)
 故人實利行者も此牛石ヶ原に行塲を開いて約一箇年半の歲月を修業したが厚い靄の流れに惱まされ遂に耐へられずして退塲の止むなきに至った

福山周平氏は実利行者を最もよく知る人物でした。古川嵩氏とは大台入山以前より深く接し、後に大台教会副会長を務めています。福山周平氏をはじめ、多くの実利行者の信者と接していた古川嵩氏が、実利行者について知らないはずがありません。その古川嵩氏から聞き取り記録したとされる著作が、このように誤っているのは不可解でなりません。本書は福山周平氏没後2年に出版されていますが、文中には実利行者が遺書を託した、北 栄蔵、和田喜平の両氏も登場しています。両氏は下北山村浦向の分骨碑や、寺垣内の正法寺の行者堂の建立に中心的な役割を果たした人物です。また下北山村に限らず、上北山村をはじめとする実利行者の信者の人々も、大台教会設立に絶大な貢献をしています。このような状況の下、那智の瀧における実利行者の究極の捨身入定を「高齡を保つて靈山那智一ノ瀧で大往生」などと曲解し、享年42才を大きく誤っています。おまけに「牛石ヶ原に行塲を開いて約一箇年半の歲月を修業したが厚い靄の流れに惱まされ遂に耐へられずして退塲の止むなきに至った」とまで述べています。実利行者の大台退山と共に村人が信仰の柱を失う、などということはあり得ません。実利行者の大台退山後、上北、下北両村をはじめ各地で仏生講が結ばれ、怒田宿の新築と大峯山道修繕へとつながっていきました。池田晋は大台教会設立に絶大な貢献を果たした、実利行者の信者の人々をどのように捉えていたのでしょうか。

松浦武四郎について
(附)池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』(p79・80)

 元木屋谷には大臺探險の先士松浦武四郎翁が建た小屋がある。武四郎翁は北海道判官と稱し、伊勢國一志郡尾上村の出生で若い頃から產業方面に趣味を持つてゐた人大臺へは一度登山し初めて大臺開拓の有利なことを悟って之に着手した。
 當時武四郎翁の豫測したところによると、開山開墾の曉には周圍三萬石の豊地を得ると云ふのであつたが、開墾の志決するや直ちに登山し名古屋元木屋の兩谷牛石ヶ原の頂上に小屋を設けて着手し冬期下山したが業中半に東京に歸り、資を得んとして募つて居る中遂に病を得て、療養中、卒中の爲、空しく大志を抱いて冥界の人となつた。
 翁の沒後翁の業績と大志を慕ふ人々は、翁が生前の志を酌んで、其の冥福を祈るため、遺骨を持ち歸り、名古屋谷の小屋の傍らに埋め、翁をして永遠にその壯業發途の地を墳墓とせしめた。

松浦武四郎は明治18、19、20年と続けて3回(いずれも4~5月頃)、大台ヶ原に登りました。案内には上北山村の人々があたり、その記録はそれぞれ登った年の内に、『乙酉掌記』、『丙戌前記』、『丁亥前記』として刊行されています。明治21年2月に亡くなり、翌22年、西大台の名古屋谷に松浦武四郎追悼碑(分骨碑)が建てられています。松浦武四郎は大台ヶ原に自費で小屋、道標を立て、明治20年の最後の登山では、牛石ヶ原で採燈護摩を行っています。この時の採燈護摩には、十代を含む60名ほどの人々が参加しています。また小屋の建設や道標設置には、近隣の村民が多数携わっていたと思われます。大台教会周辺には、松浦武四郎を知る人が少なくなかったと考えられます。大台教会完成から20数年後の執筆と思われますが、「産業方面に趣味、冬期下山、資を得んとして募つて居る中」など、理解に苦しむ内容です。何を根拠としてこのように述べているのでしょうか。(附)池田 晋 著『大臺ヶ原山と大臺行者』は、後に出版された大台ヶ原と古川嵩に関する著作の底本になったと聞き及んでいます。長期に渡りこのような誤った情報が流布されたことは残念でなりません。

(3/20 2018)
(改訂 7/22 2020)








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