実利行者の足跡めぐり

高山 実利行者碑

岐阜県中津川市高山  2014年4月
中津川市の高山小学校体育館裏手に建つ実利行者碑です。小学校の西側に沿う村道を挟んで東向きに建てられています。背後にはのどかな田園風景が広がり民家が点在しています。現在はこの地域を除いてほとんど知られていない行者碑ですが、足跡めぐり「坂下 大門 供養塔」でお世話になった中根氏より情報をいただきました。

明治13年(1880)には実利行者を信仰する「仏生講」が結成され、中部・関東・関西に広がりを見せていました。そのころに作られた「仏生講社連名記」という講社名簿が、実利教会と下北山村の正法寺に保存されていました。その名簿によると、この高山地域には5つの講社があって百名を超える講社員の氏名が記録されています。今は静かに立つ行者碑を前にして、多くの人々に信仰されていた当時の様子が思い浮かび頭が下がりました。

常磐神社の近くにお住まいで、行者碑の世話をされている渡辺修一さんにお話を伺いました。現在渡辺さんはご近所の早川さんと一緒に行者碑の世話をされているそうで、毎年二十四節気の清明(4月5日頃)にはお二人でささやかなお祭りをされているそうです。お二人のご先祖様がどの講に属されていたのかは調べていませんが、渡辺さんのご先祖のどなたかは木曽御嶽の行者をされていたそうで、そのような縁からも実利行者との関わりがあったようです。なお行者碑は最初にこの場所に建てられたのではなく、元来は高山小学校の西北西に位置し、この辺りで一番高い「岩山」の東の中腹にある魔利支天を祀る霊地に建てられていたそうです。理由は分かりませんが、渡辺さんが小学校一年生の昭和19年(1944)頃になって、馬車に載せられ現在の場所まで運ばれたことを今でもはっきり覚えてみえるそうです。中腹の魔利支天については、「岩山」の東の麓にある若宮神社の5月の例祭の時に併せて礼拝するそうです。


行者碑から300m程北に行くと、「常磐神社」と中津川市指定重要文化財の芝居小屋「常盤座」があります。

(4/30 2014)


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實利二代行者の石碑  2011年6月4日 撮影




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實利二代行者の石碑文字  2011年6月4日 撮影
石碑の先端はとがった形をしていて、高さは2m22cm、幅51cm、奥行き20cm程で、中心に「實利二代行者」、画像では判然としませんが右の行に「明治三十四年」、左の行に「三月十六日建之」と刻まれています。



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南無観世音菩薩の石碑  2011年6月4日 撮影
枠に囲まれた中心に「南無観世音菩薩」と刻まれ、それを挟んで右上に「西國三」、左上に「拾三番」、続けて読むと「西國三拾三番」、枠の外右側には「明治二十七年」左側は「○○二月一日」と刻まれています。○○は読めませんでしたが明治二十七年の干支で甲午ではないかと思います。西国三十三所の巡礼行は日本で最も歴史があるそうです、巡礼は一番札所の那智山青岸渡寺から始まり三十三番目の岐阜県揖斐川町谷汲にある谷汲山華厳寺までとなっています。おそらく巡礼を成し遂げた記念に建てられた石碑でしょう。行者碑の左側に建つ二基の小さな石碑については読みづらく不詳です。



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行者碑と高山小学校体育館  2011年6月4日 撮影












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