実利行者の足跡めぐり

坂下神変教会

岐阜県中津川市坂下高部  2012年4月19日
坂下神変教会は実利行者が出家以前に修行していたといわれています。実利教会から北へ1kmほど離れた高部の山の中腹にあり、東向きの山腹には御嶽神社と教会が建っています。毎年4月20日には御嶽神社の例祭が執り行われ、山腹の教会には幟が立ち並び、山里の春の風物詩になっています。桜の開花と例祭が重なることは近年ではまれですが、平成24年の例祭のときには見事に重なり、まさしく花を添えました。


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坂下神変教会 御嶽神社例祭  2012年4月19日撮影



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坂下神変教会 教会と前庭



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参 道  教会から御嶽神社へと続く参道  2012年4月19日撮影



由 来
坂下神変教会の吉村雅之教会長より、御嶽神社と教会の歴史や、実利行者との関わりについてお話を伺いました。

 坂下周辺は御嶽講が盛んな土地柄で、古来より木曽御嶽を信仰する修験者の集団が存在していたといわれています。しかし、それを示す記録は残っていないそうですが、その流れを汲んで組織されたのが神変教会の起源といいます。記録に残るのは信明と名乗る行者が坂下を訪れ、そこで修行をしていた実利行者の兄、林庄太郎と出会った時からです。信明行者は信州飯田出身の武士で、本名を池戸新左衛門といいました。天保八年(1837)三十六才の時に江戸詰となりますが、徳川末期の混乱に巻き込まれ追われる身となりました。信明行者は右目の下に目立つほくろがあったそうですが、それが災いとなりました。目立つほくろが仇となり逃げ切れず、執拗な追跡を受け大勢の追っ手を斬り殺しました。その慚愧の念から修行者となり、御嶽山の百間滝で修行に励みました。数年間の修行の後、坂下の修験に霊験を感じ、降神師を志して坂下を目指しました。坂下へ到着した信明行者は林庄太郎と運命的な出会いを果たし、その後二人は一心同体で修行に励んだということです。やがて年月が流れ、文久二年(1862)六十一才になっていた信明行者は自身の死を悟ったのか、降神師への志半ばにして坂下を離れ、御嶽山の百間滝の洞窟へ籠もり同年そこで生涯を終えました。後に神変教会初代降神師貴徳院(明治22年西暦1889没)の御座の託宣により、信明行者は開祖信明霊神としてお祀りされるようになりました。昭和36年(1961)には信明霊神の百年祭が行われています。


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百年祭碑  参道の脇に立つ三基の百年祭碑
左:信明霊神百年祭碑(昭和36年4月吉日、発起人3名、世話人3名
中:実利霊神百年祭碑(昭和58年4月吉日、発起人3名、世話人3名
右:貴徳霊神百年祭碑(平成元年3月吉日、発起人5名



 信明行者が坂下を去った文久二年(1862)、信明行者と入れ替わるように、二十才になっていた実利行者は兄庄太郎と共に五年間の修行に入りました。教会の伝承によると、慶応二年(1866)には兄庄太郎により、実利行者が卓越した修験者になることを祈願して経王塔が建立されました。そして翌慶応三年(1867)、五年間の修行を終えた実利行者は出家をして坂下を後にしました。


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経王塔  坂下神変教会の入口に立てられています
碑高約104cm・碑幅約72cm・奥行き約40cm、台石高約45cm・台石幅約100cm・奥行き約60cm

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経王塔裏面
 慶應二丙寅年十月吉日
爲一天静謐國家泰安
 一字一䂖書林庄太郎
      □□正行

「経王塔」は、法華経の文字を一つの小石に一字書き写した経石を地中に埋め、その上に築かれた塔を表す名称のようです。各地にはいくつかの「経王塔」が存在するようで、一字一石経塚などといわれるものもあるようです。法華経には六万九千三百八十四の文字が書かれているそうですが、塔の下には膨大な量の経石が埋められていると考えられます。しかし、次項で紹介する二つの事柄により、経石が埋められていない可能性も考えられます。一つは、廃仏毀釈運動から石碑を守るため、山に穴を掘り埋めて隠したとされていること。二つ目は、以前の御嶽神社と教会は現在教会が建つ山の麓にあり、現在の場所に再建されたのは昭和の始め頃とされていることです。二つの事柄はどちらも「経王塔」の移動を伴うわけで、経石を全て取り出して元のように納めることができたのかどうか、明らかではありません。塔裏面文字の□□は造字のようで、該当する文字がなく不明です。


 実利行者出家の翌年、慶応四年(1868)には明治新政府により神仏分離令が出されました。それに起因して廃仏毀釈運動が起こりましたが、当時坂下を支配していた苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われたことで知られています。神変教会が最もその影響を受けたのは明治4年で、石碑、石像を守るために山に穴を掘り埋めて隠したそうです。さらに明治5年(1872)には修験宗廃止令が出されましたが、混乱を乗り越え、廃仏毀釈運動終息後に山下金太郎と同志によって御嶽神社と教会は再開されました。当時の御嶽神社と教会は現在教会が建つ山の麓にありましたが、昭和の始め頃に現在の場所に再建されました。

 しかし、またしても、昭和10年(1935)の新宗教「大本」の第二次宗教弾圧に端を発した宗教弾圧が坂下にも及んだものと思われ、坂下の修験を代表する人々は特高警察に拘束され、暴力による厳しい取り調べを受けたそうです。その結果神変教会は解散を余儀なくされたということですが、これは実利教会も同様で解散を免れなかったようです。しかし、それでも屈することなく、坂下の修験者の有志は教会の再建に尽力し、それまで属していた聖護院ではなく金峯山寺に属する教会として再建を果たしました。この時、以前より属していた聖護院ではなく、なぜ金峯山寺の帰属になったのかは不詳ですが、金峯山寺への帰属が再建に有利に働くと判断されたようです。

 神変教会では御嶽神社の例祭をはじめ、年に三回の天津神の祭典や行事が行われています。今は亡き教会長のお父様、覚誠院峯安行者は特に護摩の修法に熟達した優れた行者であったといわれています。


神変教会の取材からは、これまで明らかにされてこなかった実利行者の出家以前の修行の一端が明らかになりました。そこからは兄林庄太郎の実利行者に対する思いや、与えた影響をうかがい知ることができました。兄庄太郎についてはこれまであまり情報がありませんでしたが、これまでの経緯を見ると熱心な修験者であったことが伺われます。明治35年に立てられた実利教会の実利行者碑文の裏には、「出雲大社教会大世話掛教導職権訓導 兄 林庄太郎」と刻まれています。『捨身行者 実利の修験道』(p29、p156、p218)には、経王塔が建立された慶応二年(1867)に書かれた、実利行者の自筆習字帳の記載があります。自筆習字帳の『般若心経』については、この心経は実利行者自筆の最古のもので、御嶽修験の修行中のものと推定されています。また、『般若心経』に続いて「梅楼館実利」と雅号が書かれていることから、当時すでに使用していた雅号を行者号に用いたとしています。出家以前の兄庄太郎との五年間の修行は、後の実利行者の修験者としての基礎になったと思われます。

最後になりましたが、この度の取材は私には著しきれないほどの収穫をもたらしました、ご協力をいただきました神変教会の吉村雅之教会長には心より感謝いたします。






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御嶽神社鳥居  2012年4月19日撮影
注連縄も新しく張り替えられ、すっかり例祭の準備が整いました。



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御嶽神社境内  境内の両側には石碑が整然と立ち並んでいます




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御嶽神社社殿  中央の御嶽神社を挟んで左に信明霊神が祀られています




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御嶽神社社殿  中央の御嶽神社を挟んで右に実利霊神が祀られています




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坂下神変教会拝場



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坂下神変教会拝場祭壇



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御嶽神社例祭 準備風景  2012年4月19日撮影


(10/21 2016)










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