実利行者の足跡めぐり

実利行者の墓

城の尾共同墓地  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字那智山  2007年11月11日
滝壺から引き上げられた実利行者の遺骸は丁寧に塩漬けにされて棺に収められました。そして那智大滝の下にあった墓地に埋葬され行者堂や石碑が建てられました。しかし熊野修験の本拠地であり神仏習合の霊地であった那智山は、既に明治4年(1871)神仏分離令の影響を受け那智神社(熊野那智大社)となり、飛瀧権現と呼ばれていた那智大滝は那智神社の別宮「飛瀧神社」の御神体とされました。このような関係からか「此の聖地を汚す」とされ、明治18年(1885)8月、この城の尾の共同墓地に移され宝篋印塔が建立されました。実利行者入定後は行者の墓に詣でて功徳を受けようとする人々が続々と押しかけ、線香売りまで出てその数は那智大社に参拝する人よりも多かったそうです。大正5年(1916)7月、行者の三十三回忌に玉垣、戸扉、篠垣等が奉納され、那智神社(熊野那智大社)宮司島野盛服撰文による由来記が刻まれました。大江希望氏の『南方熊楠の日記にみえる捨身行者・実利』によれば、明治44年(1911)南方熊楠が植物学者松村任三に宛てた手紙の中で、実利行者の墓について「今に香花絶えず」と書いていて、明治末の頃も多くの人が行者の墓に詣でていた様子が分かります。なお、現在は那智山スカイラインより墓地に入りますが、当時は大門坂を上がり今は廃道となっている葬斂坂(そうれんざか)を登ってこの墓地に来ていたようです。また、ここを通って那智山の山頂まで行く道もあったようです。



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城の尾共同墓地  実利行者の墓は最奥の一段下がったところにあります。



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墓前  参詣する人が絶えず訪れている様子で新しい供物が供えてありました。



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宝篋印塔  高さ3m程

実利行者墓碑銘

正面  宝篋印塔 大峯山大導師 (実利行者座像) 実利行者尊像
右側面  於テ此塔ニ一香一華ヲ似 礼拝供養セハ八十億 却生死ノ重罪一時ニ 消滅ス為願主二世安楽
左側面  此ノ実利尊ハ明治 十七年四月二十一日此ノ大 滝於テ入定シ給フ仝十八 年八月為供養建之
裏面  或ハ常ニ此塔影ニ罪障 悉滅シ所求如ニ?意ノ現 世ニハ安穏ニ後生極楽
石塔台座  和刕 北山郷 総講中 大阪 総講中 紀刕 総講中




東南海地震と実利行者の墓

鎌田宮雄 著『ふるさと坂下』(私家版1984)には、可知真一氏(実利行者の妹、可知かい直系の孫)、原新助氏からの聞き取りによる「実利霊神・高部」が紹介されています。それによると、「昭和19年(1944)の東南海地震によって五輪の塔(宝篋印塔)が痛めつけられ、勝浦と新宮の名のある石屋の親方三人の手によって見事に復元された」と紹介されています。その一方、実利教会境内に立つ可知真一之碑の碑文には、「昭和二十四年那智山實利霊神塔再建には多額の私財を投じて其の完成を果たされ」とその功績が称えられています。二つの資料をまとめてみると、昭和19年12月7日の東南海地震によって実利行者のお墓が被害を受けた。それに可知真一氏が多額の私財を投じ、勝浦と新宮の名のある石屋の親方三人に復元を依頼した。そして被害から5年後の昭和24年に見事完成を果たした、となるのでしょうか。断言はできませんが、大凡このように理解してよいと思います。

東南海地震は太平洋戦争終戦の前年12月に起きました。戦況悪化の折りから、軍部は厳しい報道管制を敷いたことで知られています。広範で多大な被害状況にもかかわらず、被害を隠蔽したことが復旧を妨げ、被害が拡大したとされています。そして、約一月後の翌20年1月13日に起きた三河地震でも大きな被害があり、同年8月15日には終戦を迎えました。特に地震の被害を受けた地域は終戦と重なり、困難を極めたことが予想されます。当時の状況を考えると、被害を受けたお墓の再建にすぐに着工できたとは思えません。被害を受けてから再建に至るまで5年の歳月がかかっていますが、関係者には多大なご苦労があったと思います。

(5/21 2018)









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