足跡めぐり 随想
足跡めぐりを始めて随分になりますが、実利行者について、自身の想いや考えを記しておかなければと思っていました。なかなか手をつけることができなかったのですが、2024年10月19日『捨身行者 実利の修験道』の著者、フランス国立極東学院名誉教授 アンヌ ブッシイ氏の講演会が下北山村で開催されました。ブッシイ氏とは旧知の、慶應義塾大学名誉教授の鈴木正崇氏も参加されました。講演会は大盛況で、会場から人が溢れるほどでした。他県からの来場者も多く、遠くは九州からおいでになった方もありました。後の懇親会では、ブッシイ氏とお話しをする機会をいただきました。50年前の調査の様子などが話題となり、貴重なお話しを伺うことができました。ときが経つのを忘れるほどで、たいへん感激しました。光栄にもブッシイ氏は当サイトをすでにご存じで、作者について興味をお持ちだったようです。念願のブッシイ氏にお会いすることが叶い、生涯の思い出に残る講演会でした。講演会開催にご尽力いただきました皆様には、心より感謝いたします。これを機に、感激が冷めやらぬうちに筆をとることにいたしました。実利行者に限らず、取材時の思い出なども記していきたいと思います。

アンヌ ブッシイ教育講演会 「実利捨身行者の修験道との出会いをかえりみて」
会場/桑原公民館 10/19 2024 共催/下北山村教育委員会・一般社団法人 下北山つちのこパーク 協力/公益財団法人 上廣倫理財団・株式会社 工房ギャレット
実利行者の足跡を訪ねようと思ったきっかけは、ブッシイ氏の『捨身行者 実利の修験道』を読んでからです。読み進むうちに、実利行者の行跡に引き込まれていきました。2006年のことでした。まず最初に印象に残ったのは、那智滝からの入定と16年の間に行われた修行の多さでした。これほどの修行に耐えられたのは、人間離れした強靱な躰と精神力を兼ね備えていたのでしょうか、或いは神仏のご加護があったのでしょうか。どちらにしても、卓越した行者だったと思いました。功績が認められ、宮家から役行者に次ぐ二代行者実利の称号を与えられても、修行や信者に対する姿勢は変わらなかったようです。信者からは身近な存在であったような印象を受け、そのような姿に強く惹かれました。そして那智滝の入定に先だち、最後の修行を続けながら、信者や村人と一丸となり、大峯奥駈け道復旧と怒田宿再建を成し遂げました。最後は修行の更なる目標をめざし「無常のけむりとなる事いんえんなれば」と書き残して入定されました。滝上で坐禅を組む姿が目に浮かび、心を打たれました。
2006年10月からはいよいよ足跡めぐりに出かけましたが、どこへ行っても親切に迎えていただきました。実利行者の縁者ということもあったのでしょうが、今でも実利行者が多くの方々に慕われているように思えました。最初は下北山村と大台ヶ原へ行きました。下北山村では、浦向の分骨碑、行者の滝、正法寺、松葉垣内の北家の供養塔、不動七重の滝へ行きました。浦向の分骨碑では場所がわからなくなり、役場へ問い合わせたのですが、携帯の電波が弱く苦労しました。役場職員の中村という方が、親切に対応してくださったことを思い出します。このとき中村氏からは資料館の存在と、北家の供養塔の場所を教えていただきました。分骨碑を前にしたときは、足跡めぐりで初めて訪れた場所ということもあり、なんとも言えない感慨に襲われました。大台ヶ原では、正木ヶ原、牛石ヶ原、大蛇嵓を見て廻りました。下旬には、中津川市落合の実利霊神社へ行きました。
翌2007年11月には、城の尾共同墓地、那智大社、青岸渡寺、那智大滝、熊野本宮大社、熊野速玉大社、下北山歴史民俗資料館、七色の滝、七色の経塚へ行きました。実利行者のお墓は城の尾共同墓地にあるのですが、絶え間なく参拝者が訪れているようすで、新しい樒などが供えられていました。あらためて実利行者が多くの方々に慕われていることを認識しました。下北山歴史民俗資料館では、このときはじめて、当時館長の福本一三氏にお会いしました。福本氏からは資料館についてはもとより、実利行者と関係が深かった方々の情報をいただいたり、そのご子孫を紹介していただくなど、たいへんお世話になりました。多方面にわたってよくご存知で、足跡めぐりにとってはかけがえのない存在でした。このとき、七色の滝にある磨崖仏と、七色の経塚について教えていただきました。
2008年の秋には、撮り溜めた画像を使って当サイトを立ち上げました。実利行者を紹介するために、ブッシイ氏の『捨身行者 実利の修験道』に頼りきった内容でした。それでもなんとか最初の一歩を踏み出しました。
10/27 2024
2009年4月は、前回見逃していた御滝本祈願所を撮影するために那智飛瀧神社へ行きましたが、あいにくの雨で那智大滝が増水していました。祈願所の奥の拝所では、滝が巻き上げる水しぶきと爆風で傘をさすことができない状態でした。御滝本祈願所と那智大滝を数枚撮影し、早々に那智を離れました。
下北山村では資料館を訪ねました。はじめに、館長の福本一三氏から『ふるさと天ヶ瀬』と著者の岩本速男氏について教えていただきました。私が興味を示すとその場で岩本氏に連絡を取り、分けていただけるよう手配をしてくださいました。このような福本氏のご縁のおかげで、岩本速男氏とのつながりができました。岩本氏は本業の傍ら「財団法人天ヶ瀬組」の理事長を長年務められ、その経験や生まれ育った天ヶ瀬への愛惜から『ふるさと天ヶ瀬』を著されました。そして翌26日には、偶然にも浦向の分骨碑で行者祭が開催されることを知りました。行者祭については全く予知していませんでしたので驚きました。当日祭りの会場へ行きましたが、開始までに時間があるようなので、高岩の磨崖仏の撮影に出かけました。ところが思いのほか撮影に手間取り、会場へ戻ってみると祭りはすでに終わっていました。磨崖仏は思いどおり撮影できたのですが、せっかくの行者祭を撮影する機会を逃してしまいました。下北山村では他に、うい山の天王、北家の供養塔を訪ねました。

上北山村では小橡の供養塔、岩本宅を訪ね『ふるさと天ヶ瀬』をいただきました。あいにく速男氏はお留守でしたが、この先お世話になることになります。
ネット上の情報では、佐藤貞夫氏の『もぐらもち新聞』と『松浦武四郎案内処』の記事にリンクをお願いしました。佐藤氏は稿本の解読を通して松浦武四郎を研究されている方で、解読、編集されたものは松浦武四郎記念館より多数刊行されています。また、松浦武四郎の研究者として講師も務められています。リンクを快諾いただき、後には当サイトの紹介もしていただきました。『もぐらもち新聞』は主に趣味の山行記、『松浦武四郎案内処』は大台ヶ原や松浦武四郎に関する情報が満載されていました。実利行者の情報を探していた私にとって、松浦武四郎が実利行者について記録を残していたことは朗報でした。佐藤氏が編集に携わり、同記念館より2003年に刊行された『松浦武四郎大台紀行集』は、武四郎が大台三登(明治18〜20年)を記録した『乙酉紀行』『丙戌前記』『丁亥前期』をまとめたもので、参考になりました。2016年3月には佐藤氏の解読、編集による『庚辰紀行』が同記念館より刊行されました。『庚辰紀行』には、武四郎が明治13年5月に敢行した大峯奥駈の様子が掲載され、武四郎と実利行者の弟子岩本弥市郎が出会った時の紀行文です。佐藤氏は、この奥駈で実利行者の弟子岩本弥市郎と出会ったことが、武四郎の大台三登のきっかけになったと指摘されています。2016年3月13日には『庚辰紀行』の発刊を記念して、同記念館で佐藤氏による講演会が開催されました。発刊を心待ちにしていた私は講演会に出かけ、この時はじめて佐藤氏とお会いしました。その後もお世話になっていたのですが、今年の3月、残念ながらサイトが閉鎖されました。以前より掲載記事の転載をお許しいただいていましたので、実利行者や大台ヶ原に関する記事を転載しています。
2009年5月には、サイト『き坊の棲みか』の大江希望氏にリンクをお願いするため、連絡をさせていただきました。お願いしたのは『南方熊楠の日記にみえる捨身行者・実利』という論文でした。実利行者のお墓が賑わっていたという、那智大社宮司篠原四郎氏の話の裏付けになることから、ぜひ紹介したいと思っていました。ユーモアを交えた格調高い文章に好感を持ちました。実利行者のお墓を訪れた際には、よい道案内になりました。大江氏からはその日のうちにお返事があり、リンクを快諾していただいた上に、当サイトの紹介までしていただきました。これをきっかけとしてお付き合いが始まりましたが、当初は引用の方法などに確信が持てず、私からお訊ねすることがほとんどでした。もともと実利行者に興味をお持ちのようでしたが、わかりやすく丁寧に指導をしていただきました。私の周りには、サイトについて相談できる相手はいませんでしたので助かりました。その後私からも取材した情報をお伝えするようになり、北家所蔵の実利行者像の讃の解読に手をつけていただきました。しかし讃は難解で随分苦労されましたが、完成時の感動は今でも忘れません。讃の解読を皮切りとしてお付き合いが進み、実利行者に関わる数々の論文、論考を発表していただきました。当サイトを立ち上げた目的は、実利行者についてより広く理解していただくことでしたが、にわか仕込みの私には荷が重く、なかなか思いどうりになりませんでした。大江氏の論文、論考を合わせて読んでいただくことで、より広く理解していただくことができるようになったと思います。大江氏からは他にも多くを学ばせていただきました。
11/10 2024
2009年9月7、8日の両日、木曽御嶽に登りました。実利行者が夜中に竜王と出会ったとされる、三の池へ行くのが主な目的でした。当時60代前半でしたが、この歳になるまで登山の経験は全くありませんでした。自分の足で高山に登るなどとは、一度も考えたことはありませんでした。単独行の登山に不安はありましたが、実利行者追蹤の想いから逃れることはできませんでした。とにかく脚力をつけようと、ひと月ほど前から歩き始めましたが、自信が持てるような状態ではありませんでした。御嶽山には主に三つの登山ルートがありますが、ロープウェイが利用できる黒沢口ルートを登りました。日帰りで登って下りるのは到底無理なので、山頂手前の二の池で1泊する予定で出かけました。天候には恵まれましたが、安全第一で、何かあったらすぐに下山することを肝に銘じて登り始めました。スタート地点の飯森高原駅から8合目の女人堂までは、ゆっくりですがあまり負担を感じることなく登りました。途中5、6人のグループが二組ほど先行して行きましたが、他は出会いませんでした。8合目を過ぎて9合目との中間点あたりから急に足が重く苦しくなりました。休んでいると下から二人組の女性の話し声が聞こえてきました。みるみるうちに私に近づき通り過ぎて行きましたが、登る速さに驚きました。見た感じは40代半ばぐらいでしょうか、その辺の道路を歩くような調子で、喋りながら急な登山道をどんどん登って行きました。その後を私は登るのですが、2、30メートルほど進んでは休みの繰り返しで、すぐに二人の姿は見えなくなりました。なんとか9合目まで辿り着きましたが、登山道の傾斜は増すばかりで空も曇ってきました。9合目半の覚明堂の主人らしき人に励まされ、剣ヶ峰手前の黒沢十字路まで登りました。この先はやっと傾斜が緩くなり、休むことなく剣ヶ峰直下まで登りました。直下から先は長い石の階段で最後の難関でした。標準で3時間10分ほどの行程を5時間以上かかりましたが、頂上に着くと清々しい気分になり達成感にひたりました。残念ながらガスに遮られ眺望は望めませんでしたが、無事に登りきれたことに感謝しました。ここから宿泊先の二の池新館までは下りと平地で、今までの苦しさが嘘のように軽快に歩けました。翌日は好天に恵まれ、賽の河原を横切り白竜小屋まで登ると、待望の三の池が見えました。この時の感動は今でも忘れません、時が経つのも忘れて三の池に見とれました。写真を何枚も撮影した後、摩利支天乗越を越え五の池小屋へ向かいました。五の池小屋からは三の池と四の池の間の稜線を回り、三の池の畔へ着きました。途中で山小屋関係者らしき人とすれ違いましたが、この日は飯森高原駅に着くまで他には一人も出会いませんでした。信仰登山のピークはお盆のころまでで、当時は9月に入ると登山者はあまりいませんでした。8合目の女人堂などはすでに営業をしていませんでした。三の池は静寂に包まれ、夜中にこの場所で竜王と向き合う実利行者の姿を思い浮かべました。一人だけの贅沢な時間を満喫し、三の池を後にしました。ここから先は、実利行者が夜中に登った山道を、8合目を目指して下りて行きます。途中すでに紅葉が始まっているところがあり、素晴らしい景色でした。写真を何枚も撮影しましたが、シャッターのトラブルにより、紅葉の写真は全て使い物になりませんでした。8合目からは昨日登ってきた登山道を下り、ロープウェイの飯森高原駅へ無事到着しました。
翌2010年8月27、28日の両日、昨年失敗に終わった写真を撮影するため、再び木曽御嶽に登りました。今回は昨年とは違う王滝口登山道を登りました。田の原〜八合目〜九合目〜王滝頂上〜剣ヶ峰〜二の池〜白竜小屋のルートです。出発時は晴天でしたが8合目に差しかかったあたりから曇ってきました。九合目あたりまでは昨年の経験が生きて順調でした。とは言え標準とは比べ物にならないレベルです。昨年は桁外れの女性の二人組に出会いましたが、今年はもっと驚く人物に出会いました。8合目に差しかかった頃、修行僧のようないでたちの人が追いついてきました。よく見ると素足で、お話を聞くと、王滝頂上の奥社まで登って拝礼し田の原へ戻るそうです。これを期間を定めて毎日行っているということでしたが、期間は聞き逃しました。私が9合目に差し掛かる頃には戻ってきて、すごい勢いで山を下って行きました。気温は一桁近くでかなり風が吹いていたと思います。この登山道ではマラソン大会が行われるご時世ですので、驚くほどではないかもしれませんが、突然目の前にこのような人が現れるとやはり驚きます。御嶽山が修行の山であることを改めて認識しました。昨年の9月と比べると登山者は多く、数えることができないほどでした。9合目を過ぎたあたりから雲が厚くなり、写真撮影は半ば諦めました。王滝頂上の奥社を過ぎるあたりから、火口に近いせいか硫黄臭が漂ってきます。剣ヶ峰頂上の手前は登山道の傾斜が強く、二度目といえども相当キツく感じました。剣ヶ峰頂上に着くと、雲の切れ間から二の池と賽の河原が見えました。急いで撮影の準備をして、なんとか撮影することができました。次から次へと雲が湧き上がり、しばらくすると二の池方面は見えなくなってしまいました。頂上を後にして二の池へ向かいます、今年は昨年閉じていた二の池本館へ泊まることにしました。2日目の出発時は晴天でしたが、賽の河原を横切り白竜小屋に着いた頃には、すでに上空に雲がかかるようになりました。三の池はよく見えるのですが、上空の雲が池の水面に写って白くなってしまいます。池の後方にも雲がかかり遠景も真っ白です。ここまで来て諦めるわけにもいかず、シャッターチャンスを待ちました。2時間近くねばった挙げ句、なんとか撮影しましたが、満足できる結果は得られませんでした。三の池の畔へ下りる予定でしたが、下山の時間を考えここで引き返すことにしました。帰りの登山道では、撮影したい場所に近づく度に、雲に邪魔をされ参りました。途中からはすっかり諦め早々に下山しました。山の撮影の難しさを痛感しましたが、二度の山行を通して山の素晴らしさを知りました。今となっては経験できない、心に残る山行でした。
2014年9月27日の御嶽山噴火について、想いは多々ありますが、何と言っていいのか言葉が見つかりません。ただただ犠牲者の方々のご冥福をお祈りするばかりです。
11/14 2024
はじめて木曽御嶽に登った2009年の10月下旬、下北山村と上北山村へ行きました。1日目の下北山村では資料館を訪ね、北家所蔵の実利行者の肖像と独鈷鈴を撮影しました。4月に訪れた際、館長の福本一三氏より北家の遺品についてお話があり、今回撮影できるように手配をしていただきました。肖像には讃が書かれていて興味を覚えましたが、ほとんど読むことはできませんでした。福本氏から冗談半分で解読を促されましたが、私には到底無理な話でした。これが「実利行者立像」の「讃」解読 のきっかけでした。その後うい山の天王を撮影し、上北山村へ向かいました。
2日目は和佐又ヒュッテから笙の窟を目指して登りました。天候に恵まれ紅葉も見頃で、指弾窟、朝日窟、笙ノ窟、鷲ノ窟を撮影しました。笙ノ窟では冬籠りの修行を続ける実利行者のことを考え、想いをめぐらしました。
3日目はいよいよ天ヶ瀬の成就碑へ向かいました。事前に岩本速男氏にお願いをしたところ、知り合いの方が案内をしてくださいました。西原から乗用車に同乗させていただき、一般車両が通行できない村道を天ヶ瀬へ向かいました。経過時間は思い出せませんが、日浦を過ぎてまもなく、天ヶ瀬の入り口にある成就碑へ到着しました。成就碑は実利行者の笙の窟での千日山籠行満行を記念し、明治4年(1871)に行者が自ら揮毫し建立したと言われています。正面には胎蔵界大日如来の梵字が刻まれ、木喰上人の千日山籠成就碑と並んで建てられています。幾度となくこの場所を訪れたであろう実利行者のことを想い、碑に近づき触れた時にはいっそう行者を身近に感じました。碑の背面には建立の日付などが刻まれているはずですが、背後の石垣と碑背面の間が狭く確認することはできませんでした。いつの日にか再訪し、碑の背面を確認することを心に決めました。今回は天ヶ瀬には入らず、西原へ戻ることにしました。帰りには国道309号を行者還トンネルまで行き、すばらしい紅葉を見て帰路につきました。

2010年4月、毎年19日に行われる実利教会霊神祭の様子を撮影しました。好天に恵まれ、大勢の参加者でお堂はほぼ満席でした。5日後の24日には、中津川市飯沼大野の実利行者碑、中津川市阿木川上の実利行者碑、中津川子野にある槙坂の覚明神社を訪ねました。大野の実利行者碑では、近所にお住まいの方からお話を伺うことができました。実利行者についてお伝えすると、行者さんのことは分からないけれど、明日25日に年に一度の例祭が行われると仰いました。これには耳を疑いました、前年の4月25日には下北山村の資料館を訪ねたのですが、そのとき館長の福本氏より、翌26日に行者祭が行われると知らされ偶然に驚きました。そしてその記憶も醒めやらぬ1年後、全く別の場所で再び同様の事態に遭遇しました。とても不思議な体験で、実利行者に導かれているような気持ちになりました。この日を選んだのは天候が良かったからに他ならず、特別理由はありませんでした。1年前の下北山村の出来事など、少しも考えにありませんでした。ちょうど1年を経ていたことも、後で調べて分かったことで、これにも驚きました。今では実利行者の命日にあたる4月21日頃、各地で例祭が行われることを承知しているのですが、当時は何も分かっていませんでした。翌25日も好天に恵まれ、晴れやかな気持で例祭に参加をさせていただきました。この地で連綿と受け継がれてきた例祭を目の当たりにして、足跡めぐりを続けてきて良かったと深く感じました。
2010年6月4、5両日、下北山村と上北山村へ行きました。初日の4日、下北山村では資料館の福本氏の計らいにより、浦向地区が所蔵管理されている実利行者の遺品の法螺貝、瓢箪と杯を撮影させていただきました。上北山村では岩本速男氏宅を訪ね、岩本弥市郎氏の肖像を撮影させていただきました。その後速男氏のご案内により、岩本泉治氏宅を訪ねました。泉治氏は、大峯に入った実利行者が最初にわらじを脱いだと言われる、天ヶ瀬岩本家のご当主です。多方面で活躍され、以前は県職員として大台ケ原ビジターセンター、NHK-BS「にっぽん百名山」ガイド出演、大台ヶ原や大峯などの著作多数、神職で現在は上北山村村議会議長、奈良山岳自然ガイド協会会長をされています。ご先祖の岩本弥市郎氏は修験者で、法名を「義長」とし、実利行者の弟子であったと言われています。松浦武四郎の大台三登には深く関わり、重要な役割を果たしました。泉治氏宅では、実利行者四十一歳生像、実利行者の位牌、代々伝わる諸像を撮影させていただきました。中でも実利行者四十一歳生像は、入定一年前に描かれたもので、生前最後のお姿に近く感激しました。また松浦武四郎より弥市郎氏に贈られた品々を拝見しました。撮影の際には親切に手助けをしていただきました。心に残る取材でした。
昨年10月19日のアンヌ ブッシイ氏講演会の際には、ご無理を言って、新装なった「実利行者四十一歳生像」持参で参加をしていただきました。主催者より許可をいただき、講演後の会場で撮影をさせていただきました。参加者にも撮影をお許しになり、皆さん思い思いに撮影をされていました。ここに改めてお礼を申し上げます、ありがとうございました。
1/8 2025
翌5日は前鬼へ向かいました。不動七重の滝の先にある駐車場へ車を止め、林道を歩いて前鬼に到着しました。写真を撮影していると、山の上のほうから法螺の音が聞こえてきました。行者堂に近づくと思いもよらず、五鬼助義之氏が慌ただしくあちこち扉を開いておられました。法螺の一行を迎える準備をされていることは明らかで、声をかけるのを躊躇しました。法螺の音は徐々に近づいているようですが、準備は終わりそうにありません。しかたなく昼の弁当を使わせていただくようお願いし、行者堂の境内で昼食を済ませました。その後前鬼五坊の跡地を撮影して回りましたが、遺構の規模や石積みが想像以上で圧倒されました。山里から遠く離れた山中に、これほどの規模の建造物が存在していたことは驚きで、修験道の全盛期が偲ばれます。何時しか法螺の音も止み、辺りは静寂に包まれています。実利行者が修行した行者坊跡にたたずみ、修行中の行者の姿を重ね合わせました。まだ他にも遺構があるようですが、私には見当もつきません。突然やってきて全てを見て回ることなど、所詮無理な話です。五鬼助氏からお話を伺うのは次の機会とし、前鬼を後にしました。
2011年6月初旬、実利教会教会長のご協力を得て、実利大行者尊三十三歳生像、五仏五大力曼荼羅、猫さま(養蚕の守り神)を撮影させていただきました。教会長の林氏からはかねてより、坂下神変教会、槙坂の覚明神社、落合実利霊神社、阿木川上実利行者碑などについて情報をいただいていました。引き続き、坂下神変教会、坂下大門供養塔、高山実利行者碑を訪ね撮影しました。
2012年4月の実利霊神祭の後、例祭を翌日に控えた坂下神変教会を訪ねました。例祭の準備はすでに整っている様子で、境内には幟が立ち並び参道脇には灯籠が立てられていました。ちょうど桜が見頃を迎え、素晴らしい光景に出会いました。この例祭以降、実利教会の林教会長よりご紹介をいただき、吉村雅之教会長からお話を伺うようになりました。私の取材に対する未熟さから、幾度となく取材にお付き合いをいただき、長期に渡りお世話になりました。
2/15 2025
2012年5月、大江希望氏により大和山林會報版『大臺原紀行』がネット上に公開されました。それによると牛石ヶ原の「孔雀明王碑」に刻まれている文字が、今までの認識と相違していることがわかりました。6月6日に現地へ行き、許可を得て始めて近くで観察することができました。あいにく石碑の下部が埋もれていて、二文字の確認ができませんでしたが、他は全て確認することができました。いつの日にか、元々あった岩塊の近くにでも立て直されることを願いつつ、牛石ヶ原を後にしました。
翌7日はもう一方の目的である日出ヶ岳へ初めて登りました。最初に大台ヶ原を訪れてから6年になりますが、日出ヶ岳へ登る時間の余裕がありませんでした。大台ヶ原の駐車場近くの宿を出発し、日出ヶ岳を目指して登りました。頂上では海を見ようと期待していたのですが、あいにく霞んでいて見ることはできませんでした。ちょうどシロヤシオが咲く時期でしたので、帰りは尾鷲辻を経て駐車場へ戻りましたが、裏年にあたるのかあまり咲いていませんでした。とはいえ両日とも天候に恵まれ、6年ぶりの大台ヶ原を満喫できました。
午後は西原の岩本泉治氏宅を訪ね、前回確認ができず撮影できなかった、垢離大事を撮影させていただきました。他には実利行者自筆の大聖不動経を拝見し、一部を撮影させていただきました。大聖不動経は『捨身行者 実利の修験道』p64に、自筆のひらがなの「不動経」の写し(岩本家蔵)、として記載されています。紙を貼って中を隠してある箇所には、歌が一首記されているのが確認できます。この歌は坂下の実利教会に伝わり、教会の境内に建立された句碑に刻まれています。「月は舞ひ 兎角と見えし 杜鵑」

三日目の8日は下北山村資料館へ行き、大峯奥駈道改修祈願碑、旅日記、実利行者の袈裟、旅や移動に用いた小さな行李などを撮影させていただきました。帰りに、2011年9月の台風12号の出水により流された、七色の経塚の様子を見に七色ダム下流へ行きました。復旧工事が行われていましたが、経塚はご神体の塔石もろともほとんど流失し、見るも無惨な状況でした。
2013年6月中旬は三日間の予定で上北山村の天ヶ瀬、大台ヶ原、下北山村へ出かけました。天ヶ瀬へは、以前撮影できなかった千日山籠成就碑の背面の撮影と、集落を訪ねることが目的で行きました。岩本速男氏のご案内で、昔から使われていた山道を歩いて上りました。あまり利用されなくなった山道には落ち葉が厚く堆積し、足元に注意して進みました。どれほど時間を費やしたのかは覚えていませんが、天ヶ瀬集落の入り口にある成就碑に到着しました。しばらく休息の後、用意してきたコンパクトデジカメで碑の背面の撮影を試みました。狭い隙間にカメラを差し入れ、なんとかギリギリで撮影することができました。当時私が持っていた携帯電話のカメラでは、狭い隙間には入るものの、近距離の被写体を撮影することはできませんでした。あまり出番がなかったコンパクトデジカメでしたが、思わぬところで役立ちました。これでやっと、碑の背面の文字が確認できるようになりました。案内をしていただいた速男氏も、持参のコンパクトデジカメで撮影に成功されました。
その後天ヶ瀬の集落に初めて入りましたが、石垣などもしっかりしていて、壊れず残っている建物もありました。道も草がはびこるようなこともなく、楽に歩くことができました。風も穏やかで、集落は静けさに包まれていました。旧岩本家は建物の一部が壊れていましたが、中に入らせていただきました。この宿坊で時を過ごした実利行者や松浦武四郎の姿が思い浮かび、当時に戻ったような気持ちになりました。外に出ると南側が開けていて、真正面に向山を望むことができました。西へ向かってしばらく行くと足元が悪くなり、ここで引き返すことにしました。速男氏とは宿で夕食をご一緒したり、機会がある毎に幾度もお話しを聞かせていただきました。天ヶ瀬への案内も自らお引き受けいただき、生涯の思い出に残る探訪でした。
二日目は小雨混じりの曇天でしたが、大台ヶ原へ向かいました。昨年見逃していた正木ヶ原の登山道脇に立つ、大辨財天影向池の碑の確認と撮影に行きました。本来は片腹鯛池の傍らに立てられていたものが、いつのまにか4、50mも離れた山道脇に移されています。おそらく、片腹鯛池付近を立ち入り禁止にしたので、登山者の目につく場所に移したものと思われますが、本来片腹鯛池に立っていたことを示すべきだと思います。碑には「大辨財天影向池」と刻まれているのですから。ついでに牛石ヶ原まで足を伸ばしたところ、天候が悪く人がほとんどいないためか、たくさんの鹿が登山道へ出てきていました。
大台ヶ原を後にして和歌山県の北山村へ向かいました。2011年9月の台風12号の出水により、七色の経塚が流されました。ご神体の塔石も流され、見つけるのは半ば諦められていましたが、2013年3月4日、元の場所から200メートルほど下流で見つかりました。一年半も経過し私もほぼ諦めかけていましたが、発見のニュースは信じられませんでした。しかしニュースに掲載された小さな画像を見ると、ご神体の塔石に間違いないようでした。今回の旅では必ず自分の目で確かめたいと思い、北山村を目指しました。現地に着くと、仮の場所に安置されたご神体の塔石はすぐ見つかりました。近付いて見ると間違いなくご神体の塔石で、ほっと胸を撫で下ろしました。樒が手向けられているのを見て、出水後しばらくして撮影された、経塚の残骸の写真が思い浮かびました。その写真には、僅かに残った石積みの残骸の上に、新しい樒が手向けられている様子が写っていました。おそらく同じ方が手向けられていると思われ、無意識のうちに手を合わせていました。
三日目は下北山村の福山家へ初めて伺いました。取材当時のブッシイ氏を案内された福山ヤスエさんと、ご子息の明広氏が迎えてくださいました。家に伝わる実利行者の遺品、遺書、福山周平氏による由来記や記録、氏が副会長を務められた大台教会の資料を見せていただきました。どれをとっても保存状態が良く、素晴らしい資料でした。ヤスエさんはブッシイ氏取材当時のお話を、懐かしい様子でお話しくださいました。たくさんの資料の中から選りすぐりの数点を撮影させていただきました。福山家では資料やお尋ねすることも多く、この後何度もお伺いしてお世話になりました。
4/12 2025
2014年4月、実利教会の例祭の後、高山の実利行者碑へ向かいました。行者碑の事情をご存知で世話をされ、近くにお住まいの渡辺修一氏を訪ねました。行者碑へ行く途中には常磐神社がありますが、一の鳥居付近で草刈りをする人を見つけました。渡辺氏について訊ねてみると、なんとご本人でした。その場でお話しを伺い、行者碑のお世話をされていることや、由来について知ることができました。最後に草刈りの途中で採取されたとおぼしき、大好物のタラの芽をいただき大喜びで帰りました。その後渡辺氏とお会いする機会はありませんでしたが、懐かしく思い出します。
7月には阿木川上の実利行者碑へ行きました。2010年4月に初めて訪れていますが、今回は行者碑の事情をご存知の、高山庄一さんからお話を伺うために訪れました。土石流が発生した時期や流失以前の遺構の様子、太平洋戦争以前まで行われていた例祭の様子を聞かせていただきました。もう一つは高山家に代々伝わる掛け軸の中に、前鬼山中之坊、五鬼上義正による掛け軸があり驚きました。前鬼を後にした五鬼上義正が、中津川周辺で活動していたことは、篠原源岳の旅日記に記載があり分かっていました。しかし五鬼上義正による『実利大行者』掛け軸の発見は、篠原源岳の旅日記を裏付けるものでとても興奮しました。篠原源岳は岐阜県武並出身の御嶽行者で、那智大社元宮司篠原四郎氏の父上です。高山さんからは、世間から忘れ去られようとしていた、貴重なお話を伺うことができました。二年後の9月、盾祈祷所の熊谷氏を案内した帰り道、家の近くの畑で作業をされる高山さんご夫妻と再開しました。お元気そうな様子で、ご夫妻の優しい笑顔が忘れられません。
2015年4月19日と20日の両日、実利教会と神変教会の例祭に参加しました。どちらも毎年4月19日と20日に例祭が行われますので、遠方から参加する私が両方に参加するには一泊しなければなりません。実利教会の例祭には毎年参加してきましたが、この年はじめて神変教会の例祭に参加させていただきました。実利教会の例祭では、読誦に抑揚がありますが、神変教会ではあまり抑揚がなく、重く厳粛な読誦が連続します。私は仏教や修験について不勉強で、的確な表現はできませんが、それぞれ金峰山寺に属していながら異なる印象を受けました。実利教会の例祭は大峯の影響を受け、神変教会の例祭は御嶽信仰の影響が色濃く残っているように思いました。
帰りには中津川の駒場にある盾祈祷所を訪ねました。盾祈祷所は、以前坂下の神変教会のグループに属していた、盾藤十行者が独立し開かれた祈祷所です。開設当初は金峰山寺に属していたそうですが、その後すぐに聖護院に属するようになったそうです。現在はご子孫の熊谷忠英氏が後を継いでおられます。藤十行者は実利行者の相当な信奉者であったそうで、実利行者直筆の五仏五大力曼荼羅の掛け軸を本尊として、いつも護摩を焚かれていたそうです。藤十行者の想いが籠った祈祷所の祭壇を撮影させていただきましたが、独特の雰囲気が漂っていました。熊谷氏とは、当サイトから連絡をいただいたのがご縁で、それ以来のお付き合いになります。なお現在祈祷所は、中津川市千旦林へ移転されています。
2015年5月、以前より参考にさせていただいていたサイト『大台ヶ原・大峰の自然を守る会』元会長の田村義彦氏より、白井光太郎 著『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』日本山岳会会誌『山岳 第二年第二號』日本山岳会 1907年発行 所収の一部コピーと、付録の『大和國大臺原山上略圖』のコピーを提供していただきました。きっかけは年が明けた1月初旬、『足跡めぐり』をご覧になった田村氏より連絡をいただき、渡りに船とお付き合いをお願いしました。以後多くの情報や資料を提供していただくことになり、『足跡めぐり』は大きな恩恵を受けました。『大和吉野より大臺原山、釋迦岳、彌山、山上岳を經て再び吉野に出ずる記』はこれまで断片的な情報しか得ることができませんでしたが、おかげで私が知りたかった大台ヶ原と前鬼について、目を通すことができました。付録の『大和國大臺原山上略圖』は初めて目にしましたが、実利行者に関わる石碑や八大龍王堂が描かれていて感動しました。提供を受けたコピー資料からは、たいへん有意義な情報を得ることができました。『大和吉野より‥‥』と付録の地図は後に実物を手に入れましたが、大いに役立ちました。

5/31 2025
7月には田村氏の論考『実利行者の苦業場跡に松浦武四郎が小堂を建てた』が発表されましたが、そこには新たな発見がありました。死蔵となっていた四日市製紙「大正六年度伐採地調査図」(大正五年十月)が掲載され、実利行者の庵跡確定に繋がりました。調査図発見後、二度にわたる現地調査が行われ庵跡が確定されました。さらに10月に入り、前会長米田信雄氏が撮影された牛石と孔雀明王碑の写真を、資料整理中に見つけていただきました。写真には牛石の隣の岩塊の上に、孔雀明王碑と思われる石碑が立っている様子が写っていました。この写真は後の調査の結果、孔雀明王碑がもともとこの場所に建立されていたことを示す根拠となりました。牛石は古くからの名所ですので、同様の写真が他にも存在すると思われますが、残念ながら見つける事ができていません。かけがえのない大変貴重な写真を見つけていただきました。その後も吉野郡大淀町に寄贈された岸田日出男氏の遺品の調査の際、郡山高等女学校第一回大臺ヶ原登山の報告書『大臺へ上るの記』などを見つけ、情報をくださいました。長年にわたり、大台ヶ原の自然保護に関わって来られた田村氏からは、貴重な情報を多数提供していただきました。
2015年11月、牛石の孔雀明王碑の写真を調べるうちに、Webサイト『奈良県立図書情報館 ITサポーターズ』に、関連する写真が掲載されているのを見つけました。「奈良の今昔写真」ページの「大台ヶ原」には、孔雀明王碑が建立されていた場所を検証できる写真が3枚ありました。写真の詳細は当ページの「牛石の孔雀明王碑」を見ていただければわかりますが、これといった手掛かりがない中たいへん助かりました。「奈良の今昔写真」ページは大勢の人から提供された古い写真が多数掲載され、時代を経た写真の宝庫です。時々訪れて拝見しますが、見始めると興味が尽きません。転載の依頼を受け付けていただいた総務企画課の宮川氏は、偶然にもブッシイ氏の『捨身行者 実利の修験道』をお読みになり実利行者をご存知でした。一般にはあまり知られていない実利行者をご存じの方は少なく、心強く思いました。氏からは当ページへの感想もお寄せいただき、実利行者追蹤の励みになりました。
7/24 2025
2016年3月、奈良県で一番先に開花すると言われる桜の花見を兼ねて、上北山村と下北山村へ行きました。上北山村では、岩本速男氏が世話人会の代表を務め再建された「猪笹王霊廟」を拝観させていただきました。3年前には竣工式の案内をいただいていましたが、この日までずるずると先延ばしになっていました。


翌朝下北山スポーツ公園の桜を見に行きましたが、3分咲き程度で散策する人もまばらでした。少し早かったようです。午後は下北山村歴史民俗資料館へ行きました。資料館を訪れるのは4年ぶりでしたが、前館長の福本氏は退館され、新たに仲氏が着任されていました。福本氏もおいでになり、久々の再会に話が弾みました。歓談しながら撮り残していた資料を撮影させていただきましたが、福本氏とお会いするのはこの時が最後となりました。お元気そうで、楽しげなお姿が思い浮かびます。「足跡めぐり」には、かけがえのない存在でした。

10月29、30の両日には、実利行者の足跡を訪ねるミニツアーを企画され、下北山村教育長の松田洋一氏をはじめ、村議の北徳次氏、大台情報システム代表の鍛川正喜氏の3名が、坂下実利教会へおいでになりました。日頃より実利行者に関心をお持ちの方々で、北氏は実利行者を尊崇して尽力された北栄蔵氏のご子孫です。実利教会からは林教会長と可知氏が同行してくださり、私が案内を務めさせていただきました。好天に恵まれ、落合の実利霊神社、坂下大門の供養塔、高山の実利行者碑、阿木川上の実利行者碑を巡っていただきました。はるばる遠方よりおいでいただきましたので、もう少しご案内したかったのですが、往復に費やす時間を考えるとこれ以上は望めませんでした。そしてこの足跡を訪ねるミニツアーは、次の年も行われました。前年と同じ10月の14、15日の両日、前年参加された下北山村教育長の松田洋一氏、村議の辻之内勇氏、資料館の巽正文氏が参加されました。辻之内氏は実利行者の分骨碑を祀る浦向の区長を兼務され、行者祭りではお世話になっています。実利教会からは前年と同様に林教会長と可知氏が同行してくださいました。前年の経験をふまえコースの見直しを行い、槙坂の覚明神社、大野の実利行者碑の2ヶ所が加わりました。自身が紹介した場所を皆様に見ていただくなど、当初では考えられないことで、光栄で忘れることができない足跡めぐりでした。
9/26 2025
2018年4月21日、松葉垣内の北徳次氏宅、佐田の「うい山の天王」、浦向の「実利行者祭り」を取材しました。北家では大臺教会古川嵩教会長による実利行者の位牌、「うい山の天王」では魔利支天木像と魔利支天供養の3枚の木札を撮影させていただきました。撮影時偶然居合わせた古老の西岡広和氏からは、「うい山の天王」の本来の所在地や、祠に祀られている他の木札などについて、貴重な情報をいただきました。翌日は「うい山の天王祭」と浦向の「実利行者祭り」が同日開催でしたが、なんとか時間をやりくりして取材することができました。松葉垣内の北徳次区長、「うい山の天王」では佐田区長の森岡誠氏、「実利行者祭り」では浦向区長の辻之内勇氏にお世話になりました。感謝いたします。
2019年1月、松田教育長よりご紹介があった、(株)工房ギャレットの今井友樹氏より連絡をいただきました。今井氏は主に、日本の民俗を専門とする記録映画の監督をされており、実利行者に興味をお持ちとのことでした。一週間ほど後に初めてお目にかかり、実利行者追蹤への想いや経緯について、お話しをさせていただきました。今井氏は実利行者をテーマにした作品の構想をお持ちで、及ばずながら私も協力をさせていただく事にいたしました。
4月には下北山村浦向の「実利行者祭り」に参加し、今井氏と再会することができました。直会の席でお話しするうち、ブッシイ氏を下北山村にお招きする計画が有ることを知りました。ブッシイ氏は時々来日されていたようですので、いつかお会いする機会があればという微かな想いはありました。しかしそれが現実味を帯びてこようとは、思いもよりませんでした。振り返れば実利行者追蹤を始めて13年、皆様とのご縁の積み重ねのおかげで、想いが実現する可能性が出てきました。
12月にはお世話になっている松田教育長より、熊野古道センター世界遺産登録15周年記念企画展『修験道 実利行者と大峯奥駈道』開催の案内をいただきました。この一年は「足跡めぐり」にとって順風満帆でしたが、後に猛威を振るう事になる、新型コロナウィルス感染症が影を落とし始めていました。

2020年2月23日、世界遺産登録15周年記念企画展『修験道 実利行者と大峯奥駈道』が開催され、熊野古道センターへ出掛けました。この日は吉野から熊野本宮大社までの山稜を調査された、熊野古道センター 事業部 コーディネーターの橋本博氏による講演会『大峯奥駈道を歩く〜80㎞踏破の記録』も開催されました。講演会場は予約制でしたが、補助椅子が並ぶほどの盛況ぶりで満席でした。これほど多くの方々が修験道や大峯奥駈道に興味をお持ちとは、思いもよりませんでした。講演会が終わり企画展会場に入ると、白装束姿の男女を見かけました。男性については分かりませんが、女性はブログで実利行者や「足跡めぐり」を取り上げていただいたことがある、成田佳子氏とお見受けし声をかけさせていただきました。やはりご本人でしたので、自己紹介をさせていただきました。成田氏は私がブログを拝見していたことを知り、驚かれたご様子でした。男性の方は、先達の柴田實英氏でした。思わぬ場所で実利行者を慕う方々と出会い、心にのこる企画展でした。しかし新型コロナウィルス感染症の勢いは止まらず、数日後に企画展は中止されました。同様の現象は全国的に広がり、行事の中止が相次ぎました。
つづきは随時書かせていただきます
安藤正彦 3/16 2026








