実利行者の足跡めぐり

槙坂の覚明神社

岐阜県中津川市中津川子野  2010年4月24日
旧中山道の子野の一里塚跡から南に向かい、150mほどの槙坂を登り切ると右側に立派な石組みで築かれた神社が見えてきます。石段を上がって境内に入ると霊神碑が立ち並び、その中にひときわ高い実利霊神の碑が建っています。平成22年(2010)4月、初めて訪れた時に神社名を探したのですが、それらしき名称を見つけることができませんでした。鳥居をくぐって入った境内に「御嶽神社」と刻まれた石碑を見つけ、さらに地図にも同じ表示がありましたので「御嶽神社」として紹介しました。その後インターネットなどの情報から「槙坂の覚明神社」と呼ばれていることが分かりました。今後は「覚明神社」と改めて紹介させていただきます。向かって左に隣接するのは「御嶽教槙坂覚明教会」です。

尾張出身の覚明行者は、木曽御嶽山の登拝を大衆に開放する意志を持って御嶽山に向かいました。登拝はそれまで道者や七十五日ないし百日間の御嶽潔斎行(重精進)を経た者など、限られた者にしか許されませんでした。覚明行者は軽精進による大衆の登拝を実現しようと麓の村々を廻り説得に努めましたが許されませんでした。天明五年(1785)意を決し賛同者や信者を引き連れ、登拝を繰り返し強行して牢に繋がれました。翌年からは登拝を強行するだけではなく御嶽山黒沢口登山道の改修に着手しました。そしてその年の6月20日御嶽山の二の池を見下ろす高台で、志なかばにして病に倒れ69年の生涯を終えました。二の池の畔から南へ300mほどにある入定の地となった高台には、二の池を見下ろすように覚明行者を祀る霊神場があります。また、行者の遺体は黒沢口登山道九合目半に建つ覚明堂の正面の霊神場に埋葬され祀られています。覚明行者の没後、次第にその行跡が認められ寛政四年(1792)には軽精進が正式に許可されました。その後江戸の普寛行者によって新しい王滝口登山道が開かれました。

覚明行者が木曽御嶽山に向かう途中、恵那山で十七日間の断食修行を行いました。その修行を終え、当時「覚明神社」の建つ場所にあった槙坂茶屋で休憩をしてもてなしを受けました。翌朝茶屋の主人に依頼された祈祷が評判を呼び、大勢の人に祈祷を頼まれるようになりこの地で三年間過ごしました。覚明行者の没後、茶屋の主人古根佐次兵衛が祀ったのが「覚明神社」の始まりと伝えられています。

(5/12 2014)

写真はすべて2010年4月24日撮影


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旧中山道沿いの覚明神社と御嶽教槙坂覚明教会




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神社境内




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実利霊神碑

高さ約2m、幅約82cm、奥行き約20cm、向かって左側面に昭和四年七月と読みとれますが、その下の文字は不明。同じく右側面には発起人と読みとれますが、その下の文字もよく解りませんでした。

この実利霊神碑は石碑の先端がとがった形になっていますが、同じような形の霊神碑は境内に見当たりません。私は霊神碑を調べて歩いた経験も知識もありませんが、岐阜や長野で見かける霊神碑は四角や楕円形かそれに近いような扁平な石を使用した霊神碑が多く、このような形の霊神碑を見た記憶はありません。実利行者は役行者に次ぐ優れた行者を意味する「大峯山二代行者実利師」という号を授けられています、木曽御嶽信仰の霊神碑と区別するために採用された形なのでしょうか。中津川市の高山小学校体育館裏手に建つ、「実利二代行者」の石碑も先端がとがった形になっています。



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